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 何十年前だったか。まだほんのガキのころの話だ。
 ある時、新聞紙で包んだ果実を忘れたまま戸棚で数か月放置したら恐くて開けられなくなった。
 開いたらどんな風に腐っているのかとか、虫がたかってたらどうしようだとか。果実の形をしたその紙の中身がガキの俺は恐ろしかった。
 中身が見えないまま放置したもんが知らない間にどうなっているのかっていうのは見えない間が一番恐い。そう思わないか?後回しにしたらしたほど包み紙をあけにくくなる。いや、まぁ自業自得なんだが。腐った果物なんてもう恐くはないが、似たようなことなら今でもやってる。んで、目下俺が放置してることといえば……

 *

 黒々とした雷雲を抜け、揺れる機内から見下ろすニューヨークの街は随分とくすんで見えた。空に片手を突き出した女神像に、戻って来ちまったかという気分になる。いや、戻って来たかっただろ?うなるエンジン音。打楽器のように窓を打つ雨。
 ウェイド・ウィルソンは荒れ爛れた頭を掻き、赤いマスクを取り出して被った。それから手持ちの武器を確認し、バキバキに画面の割れた端末に視線を落とす。待ち受け画面のヒーローにかぶさると幾筋もの透明なひび割れはまるで蜘蛛の巣のように見えた。
 ウェブズ……。
 ウェイドは彼の愛称を小さく呟いた。連絡しようとした指が、ぷるぷると震えて一度止まる。だせえなマナーモードかよ。それでもどうにか自分のキャラスタンプとデップー今帰還 スパイディ無事?の文字を送り、立ち上がった。
 ウインターソルジャー冒頭のスティーブ・ロジャースのようにはいかないのでパラシュートを背負い、パイロットに一声かけてハッチから飛び降りる。投身自殺のような自由落下に身をまかせながら思った。そういえばティーンのころ学校でくだらない授業を聞きながらこういう妄想をしたことがある。通勤途中の人間を乗せて走っている地下鉄の車両を切り離して、誰も外に出さずそのまま時空を歪めて早送りで50年放置する。こう、レンジでチンするくらいの間に中身は50年経っていて。開いた時には全部の悲劇はとっくに終わってるんだ。
 パラシュートの紐が伸び、白い布が空に広がって上に引っ張りあげられるような感覚に一瞬息を止める。眼下に近づいてくる灰色のニューヨーク。この街は今復興中らしい。宇宙から来た敵との大規模な戦いがあり、アベンジャーズが総動員されたとか。確かにあちこちの建物が崩れてブルーシートで覆われている。ウェイドはとある事情から調度この国をを出ており、連絡手段も外からの情報も全て絶ち、現実逃避ために別の仕事をしていたので知らなかった。物理的にバラバラにされ、目覚めた後街角のテレビを見てこんなことになっているのをはじめて知ったのだ。間抜けだしタイミング悪すぎかよ。で、その、とある事情っていうのは……
 路上にスーパーヒーロー着地で降り立ったウェイドはイテテと膝を撫でてから上を見上げた。そびえる摩天楼。あいつのホーム。そう、俺はスパイディを探さないといけない。愛しのスパイダーマンから離れてそのままアメリカを出た。逃げ出したのだ。
 告白をされたから。
 愛の、そして、だから正体を明かすよ、と。
 壊れた信号機の代わりに警察官が雨の中手旗を振っている。割れたアスファルトの向こうでは既にピザ屋が営業を始めていた。それを傘をさして立ち食いしながら笑う若者達。まったくこの街の連中は逞しい。あの蜘蛛もいつも通り皆を助けて回ってるんだろうか。送ったメッセージに返信は無い。
 怒ってるだろうか。傷つけただろうか。それとも呆れるだけで、もうなんとも思っていないだろうか。嫌だったわけじゃない。そんなはずはない。あいつの気持ち自体は嬉しくて仕方がないのに。でも逃げた。全速力で逃げ出した。それっきり数ヵ月。季節も変わってしまった。
 よく一緒にホットドッグを食べるビルの屋上に向かい、街に目などこらしてみた。が、そんなのでそう簡単に見つかりはしない。ウェイドは縁に座って足をぶらぶらと揺らしながら考えた。あの蜘蛛の知り合いに当たるか?それともここで待つか?返信すらくれないのに向こうから来てくれるとは到底思えないが。
 ふと視線を下に落とすと、ビルの影に人が集まっていた。武器を持った柄も頭も悪そうな男数名と、スーツ姿の男。かつあげかな。きっとあの蜘蛛だったら乱入するような状況だ。ぼんやり見ていたウェイドだが、ぼりぼりと頭を掻いて非常階段へ向かった。適当なところでひょいっと飛び降りる。二度目のスーパーヒーロー着地。いてえ。やっぱり膝に悪いわこれ。なんだおまえとびびっている暴漢たちを一人ずつ殴ってのしていく。武器を使ったら殺しちゃうからね。バールのようなものが背中に刺さったが気にしない。残念ながらホラーゲームのクリーチャーじゃないんだ俺ちゃんは。

 *

「……あ、ありがとうございます」
 隅の方で腰を抜かしていたスーツ姿の男がおそるおそる立ち上がって頭を下げる。よし、めちゃヒーローだったなさっきの俺。ウェイドはひらひらと手を振った。
「礼ならスパイダーマンに言えよ。今のはあいつの代理なんだ」
「なるほど……スパイディもあんなことになって、これからどうなってしまうんでしょうね」
「は?あんなこと?」
 思わず男の襟首を掴む。男は「あれ?」と驚いた顔をした。
「知らないんですか?スパイディは……」
 ごそごそと見せられた新聞には。

 *

 添えられた花々と人形だけが妙に鮮やかに見える。ウェイドは呆然と立ち尽くした。石に刻まれたR.I.Pスパイダーマンの文字。嘘だろ。そんな。
 足元から崩れるような絶望感にがくっと膝を折る。脳が理解を拒否する。涙すら出ない。
 雨足が更に強まってその墓を、うなだれたウェイドの身体を打った。
 死にたい。

「何してるの?」

 不意に背後から声がした。
 振り向くと、真っ青な傘をさした若い男が立っている。
 年齢は二十代半ばくらいだろうか。片腕にギプスをはめて首から吊り、包帯と眼帯をした青年は残った方の目でウェイドをじっと見つめている。
 ウェイドは威嚇するように低くうめいた。
「うっかり殺されたくなかったら今話しかけないでくれ、坊や」
 しかし青年はひるむ様子もなく、びっこを引きながらウェイドに更に近寄って来る。
「君、スパイダーマン好きなの?」
 傷をえぐるような質問なのに、不思議と殺意が湧いたりはしなかった。声のトーンのせいだろうか。ウェイドはマスクを脱いで懺悔するように言った。
「愛してた。死ぬほど好きだった」
「へえ」
「伝えたいことがあったんだが遅かったらしい」
「…………」
 なにもかも、もう遅い。雨のノイズが沈黙を包み込む。
 青年はスパイダーマンの墓を見下ろし、静かに口を開いた。
「あのね……血だらけでぼろぼろのスーツを誰かがみつけて、姿も現さないし、きっと死んじゃったんだって悲しんでお墓を作ってくれたんだよ。最後にカメラに映った映像だと全身ひどいことになってたし、死んだと思っても仕方ないかな。だから、ここに彼は埋まってないよ。彼にも私生活があるから、本当のお墓が立つ時はヒーロー名じゃなく本名になるんじゃないかな」
「あいつは生きてるのか!?」
 一筋の光にウェイドはぱっと顔を上げた。どこかで傷を癒しているだけかもしれない。そうだよあいつがそう簡単にくたばるわけがない。探さないと。
 青年はヘーゼルの目を細め、なんとも複雑そうな顔をした。
「なんで」
「へ?」
「なんで逃げたの。ウェイド」
 僅かに怒気のこもったような声音で彼は言う。ウェイドはきょとんと首をかしげた。
 なんでこいつが知って?ていうかなんでこいつは本当の墓じゃないって知ってるのにここに?墓を"作ってくれた"?
 様々な疑問が絡み合って、その答えが次第に全身怪我だらけの青年に収束していく。え、いや、そんな。
「……ウェブズ?」
 彼は否定しない。
 しかしその瞳の力の強さや、細身でしなやかな体格は愛しの蜘蛛に見れば見るほど重なっていく。ウェイドは立ち上がり、彼の頬に触れた。その背丈に確信に近いものを覚える。
 気がつくと語りかけていた。
「俺は"あいつ"が……あいつみたいな奴が、俺なんかのことを好きなのが恐かった。俺は嬉しいさ、嬉しいが、恐かった」
「…………」
「素顔を見るのも恐くて仕方なかった。だから逃げた。俺はあいつ……"あんた"のことが好きすぎるから」
 俺の好きなスパイダーマンが人殺しと付き合うのはおかしい。ずっと隠されてきたマスクの中身を見るのも恐い。私生活を知るのも恐い。腐っているかもしれない包みを開くのは恐いが、幻想を抱き過ぎている包みの中身を確認するのはそれより、もっと勇気が必要だ。それを汚すことになるのも。
「スパイダーマンの中身がこんなで幻滅した?」
 肩を竦めて彼が言う。優しげでナイーブそうで、人のために勇敢に戦って傷ついたその顔。
 ウェイドはそっと気遣いながら彼を抱き締めた。そのままぐすぐすと情けなく泣いてしまう。
「……するわけあるかよぉウェブズ…………生きてて良かった…….…」
「まったくもう、君って奴は……」
 ため息の付き方に、本当にあの蜘蛛なのだなと思う。ひょいと両手で抱え上げると慌てた声がした。
「ちょ、なに」
「足悪いんだろ?この雨だし、抱っこして帰ってやる」
「い、いいよ別に」
「さっき一人助けたんだが、あんたもいかにもチンピラに目つけられそうな見た目してるし」
「大きなお世話だよ」
「遠慮するなって。あ~……尻の感触がスパイディだ……これは間違いねえ」
「な……ウェイド!!」
 降りようともがいていた青年だが、やがて諦めたようにウェイドに身を任せた。
 墓を背にして歩き出す。相変わらず雨は降り続いているのに、雲に一ヶ所切れ目ができて高いビルの上に虹がかかっていた。

 
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