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【矛盾】

 生きたい。死んでしまいたい。死にたくない。生きていたい。まだ。
 消えてしまいたい。誰にも支配されたくなんてない。誰かに支配して欲しい、何も考えなくていいように。愛して欲しい。傷つけてしまうから、誰にも愛されたくない。理解されたい。心に触れられたくない。マシな人間になりたい。なれるはずがない。自分を知りたい。知りたいはずがない。許されたい。許されたくない。苦しい。
 相反する感情同士でぶつかり、ばらばらに割れて。その断面で肌がずたずたになる。俺には俺のことがわからない。



「でもさ、マーク」
 眠そうな目で天井を見つめながらスティーヴン・グラントが口を開いた。
「ん……?」
「世の中の人はみんな、そんなに自分のことをわかってるのかな」
 父さんや母さんに、レイラ。博物館の同僚たちに、街行く人々。アーサー・ハロウ……そして彼に従っていた人たち。みんな、自分のことを理解しているんだろうか。どれくらい。どこまで。どういう風に。傷を負ったらその深さがわかるの? 忘れたいことはどうしてる?
 肉体をメインで制御しているスティーヴンが服の上から心臓のあたりに触れた。スティーヴンの癖だ。
 マーク・スペクターはスティーヴンの内側で「さあな」と呟いた。
「他人のことは俺達のことよりもっとわからないが」
 さすがに大体の人間は俺達よりはめちゃくちゃではないだろうと思う。実際はどうなのかは知らないが。
 他人……アーサー・ハロウは、あの男の心は自分達と同じように割れていたんだろうか。
 だからコンスに気に入られたんだろうか。彼がどうしてアバターになったのかは知らないが。きっとコンスのことだからろくでもない経緯なのだろう。あの男の顔が脳裏に浮かぶ。同時に、あの神のことも。マークの心を壊れて粉々で、魅力的だと言った月の神。生かし支配し、抱える矛盾をすべてそのまま愛でて弄んだ神。苦痛と、それと。やめろ。もう忘れろ。考えるな。あんな奴のことは。やめようと思っても、気が付くと考えている自分がいる。洗っても洗っても消えない染みのようだ。マークは意識の海で頭を抱えた。
「マーク……?」
 スティーヴンに制御権があるままの肉体でマークは右手をぎこちなく動かした。重い感覚。心臓の上にあった手を大きく広げ、握るように指を動かす。スティーヴンがマークを信頼してされるがまま委ねるのでその動きはすぐに軽く、スムーズになった。
「どうかした? 平気? なにか……」
「平気だったことなんてない」
 あの日以来。これまで一度も。マークが低い声で言うと、スティーヴンはなだめるような穏やかな声で言った。
「わからないけど。今はそう言ってくれるだけいいかも。君は強がりだから」
 "スティーヴンの"鼓動を感じる。
 それに合わせて心が落ち着くのを感じる。肉体は一つ。マークのものでもあるが、スティーヴンのものでもある。マークは自分を大事にできない。好きになれない。なれるわけがない。その方法を知らない。しかし自分は、この肉体は、スティーヴンでもあるから。スティーヴンのことならば愛せる。大事にしようと思える。
 両手を動かし、スティーヴンの顔を包む。造形を確かめるように頬をなぞり、人差し指と唇に触れる。スティーヴンが薄く唇を開くので口内に指を沈みこませていくと、軽く甘噛みされた。舌先がぬるりと指先を舐める。
「ん……」
「スティーヴン」
 片手でシャツをたくしあげ、濡れた指先で胸元を撫でた。ゆっくりと辿り、円を描く。肉体がびくりと震え、自分と同じ口からスティーヴンの甘い喘ぎが漏れる。何度繰り返しても不思議な感覚だ。自分だが、自分ではない。
「は、ん……マーク……」
 溶けた声でこちらの思考も溶けだしていく。あとは互いの求めるまま。どちらのものでもある荒い呼吸が空気を震わせる。

 思考の隅で何かが鳴る。ずっと何かを忘れている気がしていた。それが何かはわからないが、思い出さない方がいいし、忘れたふりをした方がいいんだろうと思った。そうやって生きてきた。
 今はただ、スティーヴンを愛していたいと思った。




【共犯】

 スティーヴン・グラントが目を覚ますと、そこは知らない部屋だった。

 ひんやりしとした空気。四角い空間。無機質な壁。無機質な床。小さな窓からは月の光が差し込んでいる。スティーヴンはそこに向かう合うように置かれた赤いソファに大きく脚を開いて座っていた。確信は持てないが、夢の中ではない気がした。生身の肉体。な、気がする。スティーヴンは自分の手を目の前で開いたり閉じたりして軽く頬をつまんだ。痛い。
 記憶が飛ぶのはとっくに慣れている。急に知らない場所にいるのも。だから驚きはしないが。
 マーク、と呼びかけてから胸の中の彼が深い深い眠りに落ちているのを感じた。スティーヴンだけが覚醒している。マークにしばらく眠っていた方がいいと勧めたのはスティーヴンだった。彼が少し不安定に感じられたから。お互いに触れ合った後によく眠るように伝えた。あれからずっと彼は眠ったままなのだろうか。
 それならば、この肉体でここに来たのは……。
 不意に、天井からぶら下がっているライトが揺れてチカチカとついたり消えたりした。窓ガラスがガタガタと鳴る。吹くはずのない風が吹く。覚えのあるポルターガイスト。スティーヴンはソファに座りなおし、眉を寄せて目を細めた。これを、知っている。誰の、何の仕業なのか。
 ライトが消える。再び点灯する。

 瞬きするその刹那、向かい側のソファに鳥の骨に似た頭をした異形の神が足を組んで腰掛けていた。

 見覚えのある真っ白なスーツ。スティーヴンは大きく息を吸って吐くと目を閉じ、両手で顔を洗うように覆った。
 3秒ほどで目を開き、わざとらしいくらい心から落胆した声を出す。
 それくらいしか、悔しいができないから。
「やっぱり消えないかぁ」
『驚かないのか。スティーヴン・グラント』
「気がついてたよ。Silly old bird。まだ"ここ"にいることくらいさ」
 知っていた。マークは意識的にか無意識的にか認識しないようにしていたみたいだけど。スティーヴンはひらひらと手を振った。月の神、コンスは『ふむ』とうなずいて白手袋の手を膝の上で組む。
 会いたくはなかったが、やっと会えた。聞きたいことならば山ほどある。ちょうどいい。のかもしれない。マークも眠っているし。スティーヴンは小さく首を傾けた。
「なんでその格好なの。それ僕のスーツじゃない? 僕の真似? それともカーネルサンダースの?」
『私の与えたスーツだ。愚か者』
「解放する約束は? いや、あんたが約束を守ることなんて、正直あんまり期待してないけど……」
『約束は守った。"お前たち"を解放してやっただろう』
「知ってるかわからないけど、こういうのさ、詐欺っていうんだよ。消費者センターに訴えてやるんだから」
『おまえは相変わらず口が減らないな。スティーヴン』
 コンスの声は鬱陶しそうで、しかしどこか愉快そうでもある。きっと皆に嫌われているから他に話し相手がいないんだとスティーヴンは思った。
 嫌われるのも当然だ。コンスは狡猾で残酷でその上趣味が悪い。コンスは瀕死のマークの弱味につけこんで契約し彼を支配していた。マークはコンスに言われるがままに人を殺し、そして更に心を病んでいった。アメミットを止められたのがコンスのおかげだとしても、それはそれこれはこれだ。解放され自由になったはずだったが、そうではなかったらしい。やっぱり信用ならない鳥だ。
 スティーヴンはコンスを真っすぐに見つめて尋ねた。
「……ジェイクと契約を?」
 コンスは鳥の骨の頭をゆっくりと横に振る。
『そうだが、正確ではない。正確にはマーク・スペクターとだ。セット契約だとおまえが言っただろう。ジェイク・ロックリーも。もちろんおまえも。誰かと契約しているならば皆同じだ。私は確かにマークとおまえを解放したが、それは認識の問題だ』
「やっぱり詐欺じゃないか。マークを解放してジェイクのことも解放してよ」
『問題は私ではなくマークにある』
「マークに責任転嫁しないで」
 強めの声が出る。コンスは何がおかしいのかクツクツと笑った。むかつく。
 スティーヴンがじとりとした目で睨んでいるとコンスが白い影のように静かに立ち上がった。一般的な人間よりも高い身長。見下ろされると少し威圧感がある。白い手袋をした手がスティーヴンの顎下に触れた。布の下に固く冷たいものを感じる。コンスに触れられるのは初めてだった。
『マーク・スペクターは自分のことをよく理解していない。私の方が奴をよく知っている。もちろんおまえのこともな。スティーヴン・グラント』
「それって最低最悪だし、自惚れだとおもうけど」
『ジェイク・ロックリーはマーク・スペクターが自分を守るために生み出した。奴が見たくない奴の側面を集めた人格だ』
「……知ってる」
『つまり、あいつはよほど私のことを心では好いているのが嫌らしい』
 それが、ジェイクに反映されていると? スティーヴンは吐き捨てるように言った。
「マークはあんたのことなんて大嫌いだよ」
『そうだろうが、それだけではない。それだけならば、私はお前たちに憑いたままではいられまい。マークが私を求めているからこそ、"お前たち"は私のアバターなのだ。なぜおまえは自分がエジプトの文明に関心を持ち、知識を蓄えようとしていたのだと思う? マークの"理想"である、おまえが』
「あんたのためだっていいたいわけ……? だとしても、敵を知るためとかじゃないかな。だいたい、元々マークは冒険ものが好きだったし」
威圧的な声。態度。しかしスティーヴンは異形の神の頭をひるまずにじっと見つめていた。骨の頭に大きくあいた目からは何も読み取れない。

『………本当に変わったな。スティーヴン』

 急に、まるきり鳥のようにコンスが首を傾けた。スティーヴンもつられて同じ方向に首を傾げる。
「なにが?」
 コンスの手が猫でも撫でるようにスティーヴンの喉仏のあたりから上に肌を撫であげていった。愉快そうにコンスは言う。
『おまえはマークと生活が交わり始めたころ、水槽の金魚のような男だった。スティーヴン・グラント。綺麗で、純粋で、弱く、少しの傷で壊れてしまいそうな。マークが必死に用意したあのバカげた水槽で虚構に囲まれ、環境を整えられてやっと生きることができる。そこから出ることもかなわない、観賞用のあわれな魚』
「……マークは、そんな目線で僕の生活を守ってたわけじゃないよ……」
『さあ、どうだろうな。……しかし今のおまえはあのころとは違う。おまえは変わった。環境に適応するように。外敵に合わせて形を変えるように。おまえは強い。スティーヴン・グラント。マーク・スペクターを守りたいと思っているだろう。ジェイク・ロックリーと同じように』
「主に、あんたからね……コンス」
 マークの心を守るためなら、なんでもできる。コンスの手が、ぐっと顎を掴む。スティーヴンは顔をしかめた。思わず片手で自分の心臓のあたりに触れる。
 白い包帯が視界の端に映った気がした。
 気がつくとスティーヴンの服はコンスと揃いの純白のスーツに変わっている。契約を示すように。

『いい方法がある。スティーヴン・グラント』
 絶対に最悪の提案だとスティーヴンは思った。

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