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 その日はタイムズスクエアで黄色い車が横転する衝撃で目が覚めた。
 パトロールを終え、ベッドに倒れこんで1時間半ほどのことだ。
 3つとなりの部屋でトーストが焦げてぶすぶすと煙を上げている。近くの大通りでは男女が揉めて罵り合い、見物人が4、5名。巨大な生き物のようにざわめく街。その鼓動が自分の心臓と重なって、どくりと大きく脈打つ。
 青年は見開いたヘーゼルの瞳だけを右に左にぐるりと動かすと、数度瞬きし上半身を起こした。ゆっくりと両手で顔を覆う。何も見えない、聞こえない。
 違う。逆だ。
 肌感覚が異常に際立ち、全身に鳥肌が立っている。花瓶の落ちる音。急ブレーキ。悲鳴。赤子の泣き声。誰かの話し声。声。声。声。
 妄想の類ではない、情報の波。青年は落ち着こうと何度か深呼吸を繰り返したが、溺れた時のように肺が空気を取り込んでいる気がしない。過呼吸でも起こしたかのようにベッドの上で悶えていると不意に鳴った乾いた銃声にびくんと体が跳ねた。行かないと。転がるようにベッドから降りて服を脱ぎ捨て、床に抜け殻のように落ちたままのスーツを着込んでマスクを被る。すると殻でも身に着けたかのように、少し神経が落ち着いた。それでも拡張されすぎた感覚は変わらず、ただ、慣れ過ぎた強迫観念に駆られながら窓を飛び出した。


 その日のあいつは強かった。控えめに言って神のごとき無敵さだった。手助けをする隙すらなかった。いやあわよくばいいタイミングに駆け付けてかっこつけたいとかそんなわけじゃないが、仕事が空いて暇な日だったら趣味の蜘蛛ウォッチングついでに危なかったら助けてついでにデートに誘おうとか思うだろ?だがとてもそんな雰囲気じゃなかった。
 勿論いつも強いし、雨のような銃弾を余裕で避けて敵の顔面を蹴飛ばすくらい朝飯前なのは知ってる。しかしその日は後をつけて歩いた俺の見る限り、お得意の軽口も容赦もなく、ただひたすらに人を助けては悪党を殴り、蹴り、縛り、殴り、殴り、ふらふらと次のターゲットへと向かうといった具合だった。アシダカグモって知ってるか?新しい獲物を見つけたら食事の途中でもそっちに飛びかかるっていうでかい蜘蛛だが、そんな感じ。
 俺はそんなヒーローに何か得体の知れない、不穏なものを感じ取っていた。
 気のせいかもしれないが、なんとかセンスってやつだ。あいつにだけは反応するんだ。いや、股間のマグナムの話じゃない。
 当たり前だが殺したりはしてにない。しかし様子がおかしい。この俺が言うんだから間違いない。殴っているのにその対象を見ていない。ふらふらしているのに攻撃が当たらない。隙だらけで心ここにあらずに見えるのに、まるで全てを予測しているかのようにあの蜘蛛は動き回った。
 早朝から一日中そうしている間に日は暮れ夜になり星が出て日付が変わる。その間あいつは少しの休憩すらとらなかった。いや丈夫で半端なく体力があるのは承知しているが流石におかしいだろう。ストーカーするだけでもへとへとだ。深夜2時を過ぎてやっと動きが止まった。ビルの屋上でひとり座り込み頭を抱える彼に呼びかける。

「ウェブズ」
 反応はない。今までの反動のように、まるで石像にでもなったかのように固まっている。
 ウェイド・ウィルソンはむっと顔をしかめスパイダーマンに近づいた。
「ウェブズ……ウェブズ?……おい……ピート!」
 腕を掴んだ瞬間電流でも流したかのようにしなやかな痩身がびくっと跳ねた。グラスアイがこれ以上ないほど大きく見開かれ、ウェイドの赤いマスクを反射する。ウェイドも驚いて彼のマスクを凝視した。感覚の鋭い彼がこんな反応をするところなど見たことが無い。
「ウェイド……………?いつから、」
「ずっといたさ、あんたの近くに」
 ギリギリ巻き込まれない距離で双眼鏡で見ていたにしてはちょっと格好つけすぎた声でウェイドは言った。
 いや普通にバレてると思ってたんだが?彼は一層驚いた様子で黙りこくった。


 
 聞こえすぎて何も聞こえない。全てが見えすぎて、自分が見えない。
 意識が、街に溢れる多種多様な感情と同期し、世界と自分の境界が溶けて、〝僕〟が、いなくなってしまう。

 蜘蛛はビルの壁面を蹴ると身体を鞭のようにしならせ、眩暈のするような高さから躊躇無く暴走する車に突っ込んだ。ルーフを拳でぶち抜き運転席の男の襟をひっ掴む。中の強盗たちが、周囲の車が、人々が、どう動くのか、殺意がどこから向いていて何を押さえればいいのか、情報はすべて直接肉体に流れ込んでくる。考えずとも勝手に身体が動く。
 こうしながらも、混乱に乗じて盗みを働こうとしている男の怪しい動きから3本向こうの通りで泣いている子供の声まで何もかもが見えるし聞こえる。聞こえるのに。
 代わりに、痛みも疲労も寒いも暑いも空腹も感じない。何も、だ。
 男が何を喚いているのか、歓声が何を言っているのかもまるで別の星の言語かのように聞き取れない。いや、彼らの言語が変わったのではなく、おそらくこちらが言葉を言葉として認識できなくなっただけだ。蜘蛛に人語は通じない。
 ただただ、ただ、センサーに引っかかったそれに近場のものから飛びかかって、〝危険〟をひとつひとつ消して、喰らって。空腹を満たすかのようにまた次。次へ。
 昔親友とやったテレビゲームのような、自分の身体を画面を隔ててコントローラーで操作するような不思議な現実感の無さ。今までも散々この身体に宿る力や本能に、時には意思に反して振り回され暮らしてきたけれど。今は支配のされ方がその比ではない。
 でも、〝スパイダーマン〟としてはこの方がいいんじゃないか?
 元々空っぽでしょ?ピーター・パーカーなんて。

 どれだけ時間が過ぎたのか。不意に身体の動きが鈍った。何の不調があるのかは分からない。
 蜘蛛はビルの屋上に着地した。足が着いた途端、かくん、と勝手に膝が折れる。転ぶように崩れるようにへたりこんで、早朝飛び出して以来座り込み、それから頭を抱えた。日は暮れ既に真夜中だったが、それすら蜘蛛にはよくわからない。動かずにいる間も街の呼吸が、鼓動が、自分のそれで。
 近づいてくる男の声にも足音にも気がつかなかった。
「……おい……ピート!」
 身体全体がびくりと跳ねた。
 一瞬後、腕を掴まれたのだと気がつく。
 視界に鮮烈に広がる赤。スーツの色だ。いつの間にか目の前にデッドプール、ウェイド・ウィルソンがいて、蜘蛛の顔を覗きこんでいた。目が、耳が、"今ここ"に戻ってきて、喉から自分の掠れた声が出る。
「ウェイド……………?いつから、」
「ずっといたさ、あんたの近くに」
 ずっと?全然気がつかなかった。どうして。じっと見つめているとウェイドは怪訝そうにマスクの目を細め、蜘蛛の両肩を掴んだ。その感触にまた全身が波打つ。
「ウェイド……」
「どうしたんだよ。何かあったのか。ストーカーしてたんだが今日のあんたおかしいぞ」
 普段ならば何でもない、と答えるところで、なぜか口から事情を説明する言葉がこぼれた。
「…………壊れた」
「はあ?壊れた?何が?」
「スパイダーセンス……」
 巻き込む気がなければ、何かして欲しいという気持ちがなければ、何が起きているのかなど言わない。多分助けて欲しかった。
「なんでか今朝から感度が凄く増してて……聞こえるんだ。400m先で警官に酔っぱらいが怒鳴りかかってるし、その近くの家じゃ夫婦喧嘩を聞きながら子供部屋で子供がうずくまってて、1km先じゃ黒服の男が空き巣できる家を探し回ってる……トラックの運転手は眠そうで、ガラスの瓶が割れて血が、……それに、それに、それに…………」
「……………」
「行かないと……ウェイド、僕」
 ガッ、とウェイドの大きな手が両耳を覆うように頭を強く掴んだ。
 どくどくと彼の脈拍のリズムが鼓膜を叩く。代わりにざわめきがすっとおさまって、ずっと緊張していた全身から力が抜けていく。大人しくなったのを見たウェイドがスパイダーマンのマスクをぐっと目の上まで捲った。
「あ…………」
 視界が霞む。入ってくる情報のせいではない。目の奥が熱くなり、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちて。そのまますがり付くようにウェイドの胸に倒れ込んだ。頭の上で動揺したウェイドの声がする。やっと水面に口を出したように呼吸を繰り返していると、周囲が穏やかに暗くなり、意識が沈みこんでいった。
 


「スパイダーセンスの暴走の件は魔術で治療した。少しすれば元に戻るだろう」
「本当にぃ?原因はなんなんだよ」
「何者かに弄られた可能性もあるのでこちらで調べておく。彼のそれはあまり単純な能力でもないのでね」
 赤いマントの魔法使い兼医者だか医者兼魔法使いはそう言って台の上で眠る青年の額に触れた。ウェイドは「ふうん?」と余裕ぶって頬杖をつく。彼のあの泣き顔とすがり付かれた感覚を思い出すとまだ胸がドキドキした。心臓に悪い。
 ここはブリーカー・ストリート177A。サンクタム。入口でウォンに追い返されそうになったウェイドだが、抱えているのが蜘蛛だとわかった途端早く入れと奥まで通された。まったくあの野郎。
 壁に張りつくとか筋力が半端ないとか俊敏性だとかこの蜘蛛には様々な特技があるが、スパイダーセンスはその中でも重要かつ特殊なものだ。第六感のようなもので危険を事前に察知できるらしい。感度にムラがあるとは聞いていたが、今回は本人曰くそれが"壊れた"。それも無くなるのではなく、効きすぎる方向で。本来聞こえないはずの街の人間の悲鳴まで聞こえるようになってしまったらしい。常人ならばその時点で心が壊れるとも。
「精神と肉体が衰弱している。面倒は見てやってくれ」
「そんなのは言われなくても見るっての」
「それにしてもピーターが君に正体を明かしているとは、意外だな」
 ああそうだろうよ。
 優等生で善人なこの蜘蛛が、狂人で人殺しなこの俺になんてな。
 ウェイドは口をへの字に曲げ、拗ねた口調で言った。
「一度懐に入れると迂闊だしガバガバなんだよ。そいつ。押しにも弱いしちょろい」
 あれはただの事故だった。
 一緒に戦い、シャワーと着替えの場を提供した時のことだ。近所で買い物して部屋に戻るとあの迂闊な蜘蛛はマスクをしていなかった。それこそスパイダーセンスとやらはどうしただ。曰く、"危険"じゃないと反応しないだとかなんとか。危険も危険だろ。あんたのストーカーを自認するような男だぞ。『まあいいよ。君になら』なんて、そんなに軽く、勘違いさせるようなことを言うな。
 その日以来、ピーター・パーカーはウェイド・ウィルソンの友人になった。それ以上の関係を望んでいないと言えば嘘になる。しかし彼は違うだろう。無理矢理は趣味じゃない。
 どこからかやってきた幽霊犬が興味深げにウェイドの顔を覗きこみ、尻尾を振った。こらわんちゃん、恋煩いは見世物じゃないぞ。
 魔法使いはウェイドと蜘蛛を交互に見ると尖った顎に触れた。
「ピーターも君も難儀だな」
「うるせえよ」

 サンクタムを出たウェイドはピーターを背負って歩きながらぐるぐると思考を巡らせた。
 この蜘蛛にどうしようもないくらいに惚れているのを改めて自覚する。少しずつだが距離も縮まってきていると、思う。そうして知れば知るほどにこのヒーローの危うさや問題だらけの面が見えてきて。どうしようもない奴だとも思っている。スパイダーセンスの異常などなくても、いつもぼろぼろになるまで街を駆けずり回っているのは同じだ。
 いっそのこと、この腕かこの脚を、奪ってしまおうか。
 ふっと思う。そうすればあんたは諦めて、死ぬまで戦わず済むんだろうか。傍にいてくれるだろうか。……ああ、できないさ。そんなこと。馬鹿げた考えが冷えた夜風に吹かれる。ウェイドはこのヒーローが好きだ。そんな愚かなことはしない。
 そうだ。俺は、ピーターが傷つくようなことはしない。しない。するなよ。絶対に。胸の底で渦巻く暗い欲求に自己暗示で蓋をする。自分無しで生きていけなくなればいいのに、なんて思ったりしない。



 顔を見られた時は失敗したと思った。
 彼は優しいから、こんな平凡な顔を見ても幻滅したとは言わなかったけれど。
 実際、中身は平凡以下だ。常人にすらなれない。ピーター・パーカーは空っぽの人間だ。
 彼が好きなのは当然ヒーローのスパイダーマンで、だから、"僕"は……本当はきっと、あのまま溶けて消えたって、誰も困ることはなかった。

 夢なのか現実なのか。
 ピーターはふらりと起き上がり、夢遊病患者のように歩き出した。行かないと。街へ。
 街と自分が直接接続されるような感覚は無くなっていた。しかし本能は相変わらず街へ行け悪意を喰らえと言う。でもこのままでは駄目だ。今のピーターは自分のものではないだぼだぼのパジャマ姿だった。スーツは、マスクはどこだろう。スパイダーマンにならないと。
「どこ行こうっていうんだ?」
 びくりと振り向く。ドアを塞ぐようにして、私服姿のウェイド・ウィルソンが立っていた。
「ウェイド……?あれ、なんで」
「なんでもくそもあるかよ」
「僕のスーツとマスク、知ってる?」
「しばらく没収だ」
「行かないと」
「行 く な」
 ぴしゃりといつになく強い口調でウェイドが言う。
「ドクターストップだよ。蜘蛛ちゃん。スパイダーマンの営業は今日はまだお休み」
「ドクター……?」
 サンクタムに、行った気がする。なんだっけ。
 首をかしげるとウェイドはがしがしと頭を掻いた。それから意を決したようにずんずんとピーターに近寄り、ぴとりと額に触れる。その感触にピーターは小さく声を漏らした。肌表面にざわりとさざ波が立つ。
「ん……」
「すげえ熱でてたんだが、大分下がったな。スパイダーセンスの調子はどうだ?見なくていいもんまで見えてないか?」
 ピーターは答えず、ウェイドの顔をじっと見つめた。見なくていいもの。そうだ。溢れる情報の海の中で、ウェイドだけがそこにいてくれて。
 ウェイドはその熱のこもった視線にたじろいだ顔をする。
「な、なんだ?俺の顔に何か?いや、そりゃひでえ爛れ具合だが、今更そんなに…………ちょ、」
 両手で顔を引き付け、背伸びをした。彼の青い瞳に自分の顔が映りこむ。
「ぴ、ピーターさん………?あの……??」
「目も、耳も、元の通りにしか見えないし、聞こえなくなったけど……行かないと……ウェイド。君だって、そっちの僕の方が好きだろ?」
「……………」
 触れずさまよっていたウェイドの両手がしっかりとピーターの背を抱き締めた。ぞくりと触れられた場所が騒いで、身体の芯が熱くなる。今聞こえているこれは自分の鼓動なのかウェイドの鼓動なのか。
「っ…………」
「……あんたってさ、俺のこと誤解してるだろ。そんなMCUでいうファーストアベンジャーみたいなフェーズとっくに終わってるっての。あんたが俺のことどう思おうが勝手だが人の感情まで勝手に決めつけるのはやめろ」
 吐き出すように切れ間無くウェイドが言う。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 少しずつ早く、そして大きく。全身で感じる鼓動と体温と、彼の声と表情と、世界がそれだけになって。思考が。言葉で聞かずとも彼の感情が分かる。
「とにかく今のあんたは絶対行かさな………っ、!?」
 気が付くと衝動的に、彼の唇に自分のそれを重ねていた。
 触れ合った粘膜が甘く痺れ絡んだ舌から溶けていくようで、体温がぶわっと上がり下肢がくだける。腰を支えた大きな手の感触にびくんと跳ねるように痙攣した。唇から透明な糸がお互いを繋いで切れて。ピーターは呆然と固まりこちらを見つめているウェイドの頬を親指でなぞった。熱い息を吐く。

「どうしてだろ……治ったはずなのに…………、まだ、おかしいみたいだ」
 
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