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 思ったよりもずっと簡単に動かなくなった。
 首を掴んでいた両の手をぱっと離す。どのくらいの間どのくらい力をこめたのかも思い出せない。わからない。ただ。首を。首を。首を。指先に力が入らない。息を吐いて止める。彼はただ静かに眠っているように見えた。呼吸や鼓動を確かめる気にもなれない。ただ自分と同じ顔をしたその男に馬乗りになったまま、マーク・スペクターは閉じた瞼をしばらく見つめていた。外では雨がざわめいていた。水滴が透明なガラスを打つ。雨はもうずっと、いつかわからないくらい前から降り続いていた。血の気を失った顔を見てきっと自分も同じなのだろうと思う。鏡のように同じだ。整わない呼吸を整える。彼を運ばなければ。せめて綺麗な場所に。これ以上汚れないように。汚さないように。そんなことを考えたが、マークは綺麗な場所など知らなかった。それを知っているのは目の前で眠る彼だけだった。彼こそがマークにとって綺麗なものそのものだった。途方に暮れる。雨が降っている。スティーヴンは。スティーヴン、俺は。虚ろに名前を呼んだ。濡れている。天井が消えて。髪も、服も。水分を吸って重く肌にまとわりつく。残されているのは罪悪感の感触だけだった。

 雨なんて降ってなかったよ。
 スティーヴン・グラントがいつもの調子で言う。風は静かにそよいで、夜空には星が出ていて、月が見えた。僕は君に背負われて歩いていた。雨なんて降っていなかった。ただ、君はずっと泣いていた。
 泣いてなどいなかったとマークは反論しようとして、口をつぐんだ。スティーヴンの瞳があまりに優しく穏やかで、今まさに泣きたくなっていた。否定の言葉が口の中で消滅する。代わりに、おまえを絞め殺したのが悲しくて泣いていたのかもしれないと言った。自分で殺しておいて勝手だ。遠い記憶がよみがえり胸を締め付ける。
 君は僕を殺してなんていないよ。ただの悪い夢さ。君にそんなことはできない。君にもわかってるだろ。
 そうとは限らないとマークは思った。俺は俺をおまえのように信じていない。しかしマークはそれを口には出さなかった。
 君は背負った僕を静かな丘の上におろして僕に謝った。それから隣に寝転んだ。星の瞬く夜空が綺麗だった。
 そんなスティーヴンの記憶はマークのものとは違う。やはり雨は降り続いていて星などひとつも見えなかった。ただ見えるはずのない白い月が煌々と浮かび上がり、泥だらけのマークとスティーヴンを見下ろしていた。それにどこかで安心感を覚える自分がいた。月はいつもそこにある。スティーヴンの手がマークの手をぎゅっと握る。マークは目を閉じた。

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