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第六話 喪失と痛みと

 潤んだ空気。花の香。白む空と霞んだ街並み。一晩しとしとと降り続いた雨はすっかり上がり、濡れたアスファルトにはセントラルパークから飛んできただろう花弁が浮かんでいる。眠らぬ街と共に眠らず朝を迎えた青年は伸びやかに跳躍し、春の空気を切ってビルの合間をすり抜けた。スパイダーマンは今日も絶賛営業中。
 暖かくなった気温とともにニューヨークの街は華やかに活気づいている様子だ。10番街の上を飛べば人々がカメラを向けたり手を振ってこのスーツ姿のヒーローを見送る。街の脅威だとか悪党と組んでいるだとか根も葉もないうわさは15歳のころからずっと流され続けているが、最近はアベンジャーズの正式メンバーと発表されたこともあり取り巻く空気感は随分変わった。こちらの収入になるわけではないがスパイダーマンのオモチャやグッズも増えたと金髪の親友が言っていた。
 弧を描いて回り、ふわりと足先から着地する。今日はこのビルの軒下に荷物を張り付けておいたのだ。ついでに携帯を確認すると数日遠出していた恋人からメッセージが入っていた。
 [今晩戻れそう!あけといて!(* >ω<)/]
 ピーターは少し笑って、待ってるね、と返信した。
 前と同じく仕事が片付くまでピーターの安全のため連絡はしない、と先に言われていたのだが、無事終わったらしい。
 ……ヒーロー業は順調だが、ピーター・パーカーとしての生活も充実している。
 元々は母校で教師が不足しているとの相談を受けて非常勤で働くことにしたのだが、教職は思ったよりも自分に向いていたらしい。あれこれ分かりやすく努めながら授業を行うのも生徒達と接するのも好きだ。
 恋人、ウェイド・ウィルソンとも基本的には、基本的には……ハチミツに漬けて砂糖をまぶしたような生活を送っている。ウェイドはピーターに対して大方優しく、陽気で、デッドプールでいる時に見せるような狂気的な部分をピーター・パーカーにはなるべく見せないようにしているようだ。先日怪我について問い詰められた時も、彼は途中でやめた。ピーターが何か隠しているのは察しているようだが、あれ以来無理には追及してこない。心配そうだったり不満そうでは、あるけれど。
 そういう意味では自分たちは似た者同士なのかもしれない。ウェブで絡まったバッグをそのまま背負って飛びながらピーターは思う。一緒にいるために本当の自分を隠してる。
 スパイダーマンと、ピーター・パーカーと、片方ずつ見れば上手く行っている。しかしその二つは一人の人間でこなしている以上不可分で、嘘と矛盾と葛藤が合わせ目からどうしてもぼろぼろと溢れ出す。そしてそんな選択をしているのは、紛れもなく自分だ。
 急降下し車の間を危なげもなくすり抜けて、轢かれかけていた子供を抱えて反対の歩道に下ろす。左右はよく見てね。周囲の声援で見送られながらまた跳躍した。
 ピロン、とメッセージ。またウェイドからだ。それもえらい長文。
 ……要約すると、桜が咲いているうちにセントラルパークでデートがしたい、と言っている。ピーターはマスクの下で目を細めた。そうだね。散ってしまう前に。今のうちに、

 不意に、何かが音もなく飛んでくるのを感じた。
 左斜め後ろ。

 スパイダーセンスが敏感にそれを察知し、身を翻して避ける。するとまた同じ方向から何発か飛んできた。避けるのと同時に素早くウェブを飛ばし、絡めとる。ピーターはそれを手のひらでキャッチしながら進路を方向転換した。位置と角度から素早く飛んできた場所に当たりをつけて、そのビルに近づく。
 少し探すと、窓の外側に不審な機械が設置されていた。無人。手を伸ばそうとするとまたスパイダーセンス。それは一瞬光を発すると音を立てて自爆してしまった。遠隔で監視していたか、もしくはセンサーでも仕込まれていたのだろうか。
 手元に残ったものに視線を向ける。
 銃弾ではなく、殺傷力はなさそうだ。アーモンド大の、小さな機械の中に赤いランプが点滅している。しげしげと色んな角度から見ながらピーターは首をかしげた。スパイダートレーサーの類?
 スパイダーマンの寝ぐらを突き止めようとしている奴がいるのかもしれない。まあ、こういうのは初めてではない。
 春だしなぁ。変な輩も増える。
 とりあえずスタークインダストリーの研究所に持っていこうと思った。こういう小さなものが大事件の始まりだったりするから、軽く見てはいけない。
 これから行くというメッセージをトニー・スタークに送ると、多忙な彼にしては珍しく、すぐに承知したという返信が来た。それに何かファイルが添付されている。……事件の資料のようだ。ここ一週間ほどで幾人かのミュータントが立て続けに行方不明になっているらしい。まったく物騒な。
 恋人とただ春に花に浮かれるだけ、という日は自分がスパイダーマンである限り来ることはなさそうだ。



 ぽたり、と液晶画面に血が落ちる。

 手の側面で拭おうとすると余計に汚れてしまい、ウェイド・ウィルソンは舌打ちした。折角返信がきたっていうのに。その上にひらひらと、どこからか飛んできた花びらが落ちた。指先でそっと拾い上げる。近くで桜でも咲いているらしい。
 鳥の声がする。周囲は明るい。すっかり朝だ。
 岩場に寄りかかるように寝ていたウェイドはどっこいせと立ち上がり、回復しきっていない身体で伸びをした。血を吐く。まだ内臓が駄目なようだが、まあいいか。とにかくこれで帰れる。ニューヨークに。あいつのところに。内臓はどろどろだが気分はスッキリ爽やかだ。
 ひょいっとよじ登り、とんとんと踊るように岩の上に立つと少し離れた川沿いに桜が一本咲いているのが見えた。ここのはもう散りかけだが、ニューヨークはそろそろ満開なんじゃないだろうか。
 一緒に見たい。というか桜を見るあいつを見たい。だからそう、またメッセージを送った。
 ウェイドが恋人を思って佇む岩の反対側には、何人もの男がぐるぐるに縛られ落ちている。
 一応誰も死んでいない。はずだ。
 以前ならば当然のように全員殺していただろう。その方が手間もかからないし楽だ。しかしここ最近のウェイドは仕事の仕方を変えていた。なるべく殺さない。明らかに黒い仕事は報酬が高くても受けない。仕事の場所はなるべくならニューヨークがいいのだが、そうじゃない方がいい場合もある。大事なものは近くに無い方が安心なことも多いのだ。
 ため息をつく。

「は~~……まともになりてえなぁ」

 まともになりたい。まともになりたい。ああ、まともになりたい。
 まともが何かすらわからなくなってしまった身だが。あいつのそばにいるために。いてもいいと自分で思えるように、まともになりたい。あの蜘蛛のように、とまでは言わないから。
 ウェイドは撮りためてきた写真を指でスライドさせながら繰り返し物憂げに息を吐いた。許可を得て撮ったものもあれば、こっそり撮ったものもある……事後の寝顔とか。盗撮じゃねーか。俺しか見ないから許せよ。精神安定剤より効くんだ。
 微笑む写真の唇のあたりに親指で触れる。
 ……ピーター・パーカーという青年と付き合うようになってから、はじめて彼について知ったことは色々ある。単なる友人付き合いの間には見えなかった、あるいは彼が意図的に見せないようにしていた部分だ。
 しっかりしているようで意外と抜けているところがあったり、神経質なのにたまにえらく豪快だったり、清楚に見えてめちゃめちゃエロかったり、素直そうで頑固だったり、優しげな目に、たまにふっと深く暗い影を覗かせたり。
 初めの印象自体は変わっていない。しかし一見単純そうに見えて複雑で、中々全容が掴めない。ピーターが自分に見せていない面はまだまだ沢山あるのだろう。ウェイドは思う。この間も怪我の理由をウェイドは教えてもらえなかった。
 ピーターはマイナス感情を表に出したがらず、ウェイドの好むだろう自分を演じているようにたまに見える。それはそれで、いじらしくて好きなのだが。一枚一枚彼を覆っているヴェールを剥ぎとって、いつかなにもかも暴いてやりたいとも思う。隠したがっているもの全て、奥の奥まで。ぜんぶぜんぶ欲しい。言葉を交わす度触れる度に、執着心が際限なく強まっていくのを感じる。俺がまともになったら、手に入れられるのだろうか。阿呆か。まともな奴がそんなこと考えるかよ。ほんと俺なんかに惚れられたのはあいつの不幸だよな。そんなの最初から分かってただろ。蜘蛛にも話した。今まで俺に関わった何人を後悔させてきたかわからない。あいつは優しいからどうなってもそんなこと言わないんだろうが、それに甘えて嫉妬深くてわがままでめんどくさい男だ。そのくせ、あの蜘蛛にうつつを抜かしたりもする。救えない。救えない。
 タイツで覆われたしなやかなヒーローの肉体が混沌としが脳内に舞い降りて、ウェイドは首を横に振った。
 ……スパイダーマン。あいつのこともわからない。あの日からも変わらず、週に何度かは遭遇している。しかし意識するのはやめようとそう思えば思うほど彼をそういう目で見ている自分に気が付いて罪悪感に胸が蝕まれる。夜景を背に宙を舞う姿にどうしようもなく心が惹かれる。憧れやらそれだけではなく。こんなにピーターのことが好きなのに、だ。これもどうにかしないといけない。どうにかなるもんなのかもわからない。駄目だ。考えるのはやめだ。とにかく今夜は恋人に会える。それだけ考えることにしよう。




12 hours lator……

 固い床に膝立ちすると、目を覆っていた布が解かれる。視界に入った景色は白かった。白い壁と白いドア。その部屋には窓もなく、代わりに天井には太いパイプが蛇のように這い、通気口があけられている。角には監視カメラ。冷たい空気を染めるくすんだ薬品のにおい。研究施設か何かだろうか。部屋にいる3人の男のうち一人は白衣を着ている。ピーターは冷静に状況を確認した。
 両手は後ろで枷を嵌められまとめられている。建物に入った際に元の服は下着を残して剥ぎ取られ、代わりに病院の検診衣のような膝上丈の薄い服が身体を覆っていた。
 ピーターをこんなところにこんな状態で連れてきたのはここにいる白衣以外の、黒服の男二人である。もちろん知り合いでも友達でもない。初対面だ。
 ……お察しかもしれないが、人さらいに遭った。 
 こういうのは今までの人生で残念なことに少なくない回数経験している。スパイダーマンとしてもピーター・パーカーとしても。売り飛ばされかけたことも何度かあるし、海に沈められかけたこともあれば地中に埋められたこともあるし、宇宙にさらわれたこともある。好きでそういう目に遭っているわけではないのだが、いいのか悪いのか慣れてはいる。
 だからそう、焦っているわけではないのだが。
 そろそろウェイドから連絡がある時間なんだよな……。
 ピーターはため息をついて、今日のことを思い返した。



 学校での仕事が終わり、地下鉄の駅に入った時のことだ。
 スパイダーセンスは鳴っていた。
 つけられていることには気がついていた。
 つい今朝方、発信器をつけられそうになったばかりだったため、何かへまをして正体を特定されたのかと思ったのだが、そうではなかったらしい。

「ピーター・パーカーだな」

 駅から出る前に、真後ろに近づいてきた男が話しかけてきた。立ち止まり、振り向かないまま答える。
「そうだけど、何か?」
「ウェイド・ウィルソンを知っているな」
 ピーターはむっと顔をしかめた。そっち?ゆっくりと振り向く。黒いスーツにサングラスをかけた男が立っていた。くすんだ金色の髪と、首のあたりにケロイドの傷跡。その後ろで控えている黒髪の男も仲間なのだろうか。
 感想は、うわあ、堅気じゃなさそう。フューリーに怒られるかもしれないが、ちょっとシールドにいそうだ。傭兵っぽさもある。この手の人間はにおいでわかる。
 ピーターはいかにも一般人、という顔をして言った。
「ウェイドがどうかした?」
「一緒に来てもらおうか」
「デートは間に合ってるし、今日は忙しいんだけどな……」
 ぐいっと無理に腕を掴まれる。脇腹に冷たく固い感触。ピーターは目を細めた。乱暴だな。
 隙をついて振り切って逃げようか?しかしそれだと周りの人を巻き込みかねない。それに、目的を確かめたい。ウェイドの名前が出たのなら特に。
 ピーターはひとまず黙って彼らに従うことにした。言われるままに歩くと、下校途中だった生徒とすれ違う。気を付けて帰るんだよ。手を振ると、生徒は怪訝そうな顔をした。この体勢で言うとブラックジョークみたいだ。
 そのまま駅から連れ出され、車に押し込められ、目隠しをされ……今に至る。

 この枷を壊すのはそう難しいことではない。拘束の仕方からいっても、彼らはピーター=スパイダーマンに気がついているわけではなさそうだ。ただの一般人のピーター・パーカーはさらって何かうまみのある存在でもないので、目的はやはりウェイドなのだろう。
 そんなことを考えているとパシャリと音がして写真を撮られた。黒髪の男がカメラを構えている。
「……撮るならモデル代払ってよね」
 軽口を叩くと金髪の男はピーターの正面に立ち無表情に見下ろした。
「随分元気だな」
「ウェイドに送るの?彼に何か恨みでも?もしくは、ミュータントをさらってまわってるとか?」
 別に確信があったわけでもなんでもない。かまをかけるつもりで口にすると前髪をひっつかまれた。
 ビンゴだったらしい。
「おまえ、どこでそれを?」
「え?話題になってるよ。知らない?ツイッターのトレンドにも上がってるし」
 右から拳で殴られた。バランスを崩し床に倒れこむ。
 まったく、冗談が通じない。そんなだから犯罪に手を染めるんだ。
 更に蹴られそうだったので身構えたが、白衣の男が止めた。
「やめておけ。そいつはスタークのところにも出入りしているらしいから知っていてもおかしくない」
 そこまで調べられているとは嫌な感じだ。ピーターは床に頬を擦り付けたまま口を開いた。
 わざわざあのデッドプールに関わりたいなんて、
「ウェイドの不死の身体を調べたいとかそんなところ?」
「話が早いな坊や。あの狂人に電話をかけて命乞いしろ。引き換えに解放するって言われてるってな。恋人なんだろ?」
「やめておいた方がいいと思うけど……彼は絶対君たちの手になんておえないよ。君たちが命乞いすることになると思う」
 心の底から言ったのだが、彼には通じなかったらしい。結局思い切り腹を蹴られた。常人なら肋骨がイっていたかもしれない。そのまま、倒れた身体を上から押さえつけられる。首筋にチクリと痛みが走った。何か液体が体内に入ってくる。薬漬けにする気か。これもよくある。いや、無い方がいいんだけど。
 芋虫のように身を丸めたところをまた撮られた。それを送られたウェイドの反応を想像し、恐ろしくなる。大丈夫かな。心配だ。怒ったウェイドも、そんなウェイドに相対することになる人たちも。最近は人殺しを避けていると、ウェイドは言っていた。だから大丈夫だと思いたい。
 男たちの気配が遠ざかり、鉄のドアが閉じられる。放置されたピーターは全身を弛緩させ大きく息を吐いた。
 少しずつ意識が白い絵の具を混ぜるように濁っていく感覚。呼吸が荒くなる。
 常人よりは薬物も効きにくいはずだが、ウェイドが外出している間ろくに睡眠を取らずいたのが良くなかったのかもしれない。眠い。気持ち悪い。いや、そんな場合じゃない。とりあえず監視カメラをどうにかできれば、通気口から見つからず移動できるはず。
 できればアベンジャーズに連絡して、あいつら……他にも沢山いるかもだけど……を捕まえて、捕らえられているミュータントの人達を解放しないと……
 身体を支配しようとする感覚と戦いながら何分か、何十分か、そうして思考を巡らせていると、またドアの向こうに気配がした。
 部屋に誰か入ってくる。施錠する音。ピーターは目を閉じ、気絶している振りをした。足音は一つ。
 動かずいると、頬に冷たい液体を垂らされた。キツいアルコールのにおい。それから足で身体を揺さぶられる。
「おい、起きろよ」
「う……」
 小さくうめくと今度は顎を掴まれ、スキットルを口に押し付けられる。無理に流し込まれたそれが舌を、胃を焼くような感覚にピーターはむせこんだ。酒には詳しくないがおそらく相当度数が高い。
 ピーターは濡れた目で男を睨んだ。
「まだそんな目ができるんだな」
 ピーターをここに連れてきて、殴った上に腹を蹴った男はサングラスを外して笑った。
 嫌な表情だ。声も表情も、先程までは業務的で感情が薄く見えたのが、今は打って変わってどろりとした欲を滲ませ嗜虐的な色を帯びている。
「おまえ、気弱な一般人みたいなツラしてるがそうじゃないだろ。目を見たら分かる。他は騙せても俺はそうは行かないぜ。ま、そうじゃなきゃあんな屑の変態と付き合わないか」
「……きみに……彼の何が分かるって……?」
 男は「分かるさ」と口元を歪めた。
「俺は元々特殊部隊あがりの傭兵なんだが、デッドプールの野郎には色々と世話になったことがあってね。簡単に言うと殺されかけたんだが。ロクでもない奴揃いの中でも特にイかれた奴だった」
 ウェイドの知り合いらしい。そして最初の印象は間違っていなかったようだ。
 不意に、男の手がピーターの着せられている服の下を滑るように太もものあたりを掴んだ。明らかに性的な意図を感じる指使いで肌表面を撫でられぶわっと全身に鳥肌が立つ。弾かれるように後ずさりすると、追いかけるように更に奥まで手が侵入してきた。薬とアルコールのせいもあってか身体が熱く、感覚が敏感になっている。
「やめろ……、」
「おっと、いいのか?俺は親切で来てやったんだぜ?」
「親切?」
「ここの奴らはおまえのことをさっさと実験で使い潰して殺す気だ。ミュータント連中みたいに貴重なサンプルってわけでもないしな」
 内股を撫でられ、品定めするような視線が肌を這う。ぞわぞわする嫌悪感に今すぐ手の枷を壊して殴ってやりたい衝動に駆られたがぐっと堪えた。
「っ……ん」
「でも、おまえもさ、本当はあんな奴のせいで死ぬのなんてまっぴらごめんだと思ってるんじゃないか?あんな奴のこと本気で好きになるわけがない。そうだろ?」
 ピーターはピタリと動きを止め、男の目を見た。
 ウェイドよりも緑寄りの瞳が嗤う。男は図星を突いたというように得意気につらつらと続けた。
「俺もあいつの素顔を見たことがあるが吐きそうになった。金でも貢がれてたのかは知らないが、あんな気持ち悪いのに抱かれるなんておまえも相当アレだなあ」
「…………」
「あいつはおまえにゾッコンだったみたいだが、その顔でもいいよとか言えばすぐ落ちたんじゃないか?馬鹿だもんな」
 言っていることに疑い一つないのだろう、哀れみのこもった声。冷たい指先がピーターの頬から首筋にかけてをつつ……と滑る。嘲るような声で男は言った。
「で、だ。俺は慈悲深いからな。おまえの態度次第では……助けてやってもいい」
 降りてきた手が胸のあたりから腰までを撫でた。服をへそのあたりまでまくり上げられる。声が出そうになるのを必死で押さえた。
「あの変態に奉仕してやってるんだろ?どんな風にあいつを虜にしてるのか俺にも見せろよ。でも確かに大人しそうな顔してるくせに身体は随分……」
「っ…………」
 ピーターは大きく息を吸って吐くと、一瞬止めて、ゆっくりと瞬きする。間違えるな。間違えるな。熱される感情を理性で押し込め、一度唾を飲み込んで口を開く。
「……そうだよ。ぼくは、彼のことなんて好きじゃない……本当は顔もみたくない。助けてくれるなら……」
 上目使いに、ささやくように、誘うように。

「なんでもするよ」



 股間を丸出しにした間抜けな状態で締め落とされ、気を失っている男の足を掴んでずるずると引きずる。ふらつく足取りで端っこまで歩いて男の足を落とすように離し、ピーターは膝を折った。

 もう色仕掛けなんて絶対するもんか。

 よくあるヴィランとの生きるか死ぬかの戦いよりずっと心も身体もすり減った。
 この男はウェイドへの復讐心とあてつけと、ウェイドの恋人への好奇心ゆえにピーターを犯そうとしたのであって、それ以上でもそれ以下でもないのだろうけど。
 所詮ただの一般人だと思われていたし、口ではああ言っていたが助ける気など無かった可能性も高い。ウェイドを裏切って受け入れる演技で聞けばなんでもかんでもべらべらとよくしゃべった。
 ぶる、とピーターは身を震わせる。
 肌を這う感触が消えない。知らない男の欲を無理に押し付けられる嫌悪感。嫌だった。嫌だった。ウェイド以外に触れられるのがここまで受け付けないなんて。我慢したかいあって、今この部屋の監視カメラは異常なく見えるよう細工されているだとか、捕まっているミュータントは10数名だとか、武装した傭兵が他にも何人も雇われているだとか、聞き出すことができたのだけど。
 ごそごそと男のポケットを漁り、カードキーらしきものを手に入れ、拳銃を没収する。人を撃つ気はないが陽動くらいには使えるだろう。ついでにサングラスも拝借しておいた。
 壁に張り付こうとして、失敗してへたりこむ。口の中に胃液のすっぱい味が広がった。アドレナリンで薄まっていたが相変わらず頭の奥がぐるぐると回るように気持ちが悪く、身体が重い。うずくまり、少し嘔吐する。しばらく何も食べていないので吐くものもない。
 ……行かないと。止まってる場合じゃない。
 息を整えてからもう一度壁に張り付いて登り、通気口のカバーを素手で取り外した。通れそうだ。
 怠く熱い体に鞭打ちながら蜘蛛そのもののような動きで天井裏を這って、研究所内の様子をうかがう。聞いたとおり結構人がいる。ライカーズなどで使われている能力制御用の首輪が置かれているのも見つけた。あれで捕まえたミュータントの力を抑え込んでいるのだろう。取り上げられた荷物を見つけられるといいのだが、そんな暇はないかもしれない。
 無人の倉庫のような部屋を見つけ、ピーターはひょこりと顔を出した。段ボールがいくつか積まれ、医務用品のような物も見える。部屋の端には水道と鏡。調度いい。音ひとつ立てず中に降り、包帯を拝借した。マスクの代わりになる。それから我慢できずまた少し胃液を吐いて水道で口の中をゆすぎ、鏡を見た。
 青白い、痩せた男の顔。汚れた検査着からのぞく鎖骨やうなじのあたりには赤い痕がくっきりとついていた。吸われた時の感覚がよみがえり、そこにも水をばしゃりとかけて頭を振る。こんなのは後だ。ぐるぐると目と口を避けて包帯を巻き、サングラスをかける。完全に不審者だし一人だけハロウィンのようだが仕方ない。拝借した拳銃やキーも腿のあたりに包帯でホルスターのように縛り付けて。今日はこれがスパイダーマンだ。
 その格好のまま、また通気口を通って今度は別の部屋に侵入した。天井で待ち伏せ、入ってきた研究員らしき人間を背後から音もなく気絶させる。PCのセンサーにその人の指紋を認証させて開き、いくつかメッセージを送信した。すぐ見てくれますように。見付けた研究所内の地図も添付しておいた。後は、これを見ながら先に色々細工をしておこう。

* 
 
 おまえに何かあったら生きていけない、と言うと、あいつは君は死なないでしょと言った。
 それが一番恐れていることなのに。あいつは平気でそんな言葉を口にする。
 でも、君が僕より先にいなくならないのって、僕は安心だから。君のそういうところ好きだよ。
 あいつは優しくて残酷だ。

 拘束具を嵌められ、箱に詰められ、ガタゴトとどこかに輸送されながらウェイドはただピーターのことを考えていた。
 嵐のように荒れていた感情は今はスッポリと台風の目に入ったように凪いでいる。彼と交わした会話や表情を思い出して、そのまま、危害を加えた奴らをどう殺そうかと淡々と考えた。そうしないと気が狂いそうだから。とっくに狂ってるだろ?何を今更。そう、今更だ。だから言わんこっちゃない。こうなるって知ってただろ。
 送られてきた〝それ〟を目にした瞬間は燃えるような怒りと背筋が凍り付くような恐怖が同時にウェイドの心を支配した。言われた通りにしなければこいつを殺すというベタベタの脅迫文と拘束された恋人の写真。恐怖と殺意。殺す。絶対に殺す。俺からあいつを奪おうとする奴は全員。誰が誰のもんだって?そもそも俺のせいであいつが殺されかけてるのにか?あいつにこんな目に遭う理由は本来無いはずだ。俺と関わったこと以外は。こんな真似をした奴はこれが俺にとって堪えることだと知っている。だからあいつなんだ。つまり俺のせい。そう。そうだろ。脳内にいくつもの最悪の妄想が浮かんでは消え、浮かんでは消え。容易く感情の閾値を超えて、溢れて逆に無になったようになる。
 ウェイドは、指定の場所に現れた男達を即時全員射殺したりはしなかった。
 逆に相手が拍子抜けして不気味がるほど素直に奴らに従った。両手を挙げるとドン引きされる量の武器が没収され置かれていく。ウェイドはただ黙ってそれを見ていた。頭の中で優先順位だけははっきりしていた。
 たやすく人を殺せる屑が本当にたやすく人を殺すことをウェイドは知っている。なにせ自分もその一人だから。ずっと命の軽い世界に身を置いてきた。こういう連中はウェイドの目の前で恋人を拷問することにも頭を吹っ飛ばすことにも何の躊躇も良心の呵責も無いだろうことも。理由の重い軽いも善人も悪人も関係なく人は死ぬ。
 そのことに、ウェイドはごく普通に怯えていた。



 せせら笑うような声が言う。
「先に会わせろ?価値のないものを生かしておくはずがないだろ」

 デッドプールことウェイド・ウィルソンがその施設に運び込まれて、爆発が起こるまで大体15分だった。
 爆発したのはデッドプール自身。

 小規模な爆発ではあった。肉と骨の間に仕込まれていたそれは血と肉が飛び散らせ首の拘束具を砕き、爆風と破片が近くにいた人間を弾き飛ばす。
 十数秒してから、ゴーグル付きのマスクを被った男が銃を構えたまま肉のえぐれたデッドプールの〝死体〟に近づいた。
 シュウシュウと煙を上げるそれは、両腕はまだ後ろでひとまとめに拘束されている。何故爆発したのか、男はわかっていない。50cm程度の距離にまで近づいた瞬間、死体の片足が急に曲がり、その体勢から獣のように跳び上がった。明確な殺意のこもった青い瞳が見開かれる。その表情は怒れる鬼のようだった。殺してやる。お前ら全員。
 ウェイドは男に思い切りボディブローを食らわせ、至近距離からの発砲をものともせずに男を押し倒した。相手のマスクを口で剥ぎ取り、頭蓋骨の割れる勢いで頭突きを食らわせる。
 本来鳴るはずの施設の非常アラームは何故か鳴らない。カメラは謎の故障。隔壁が閉まっているため音も外部に漏れにくかった。そんな事情は知ったことではないが、ウェイドは相手が沈黙したのを見るや否や他の男に猛然と襲い掛かった。銃弾の雨をそのまま受けながら薙ぐように足を払って転倒させ、何度も床に踏みつける。くもぐった悲鳴。怯える声。すべてが殺意に変換される。
 殺してやる。殺してやる。殺してやる。

「止まれ!!」

 ウェイドの体に痺れが走った。次いで激しく脳が揺さぶられる。放たれた対ミュータント用のソニックブラストと超音波が身体の筋肉を振動させ、自由を奪った。
「ヴヴ……」
 歯を食いしばる。唇が切れる。悲鳴を上げる全身の細胞を次々再生しながらうずくまった。それでも衝動だけは止まらない。深い絶望と悲しみと、閃光のように強い怒り。こんな奴らに。
 ウェイドの首に切断用のチェーンソーが押しつけられようとしたその瞬間、短い悲鳴と共にウェーブと超音波が止んだ。身体が動く。何かに驚いた声を上げている男に突進して蹴りつけた。
 振り向くと、薄水色の検査着をまとい頭を包帯でぐるぐる巻きにしてサングラスをかけた妙な奴が残りの敵をのしていた。
 格好はヘンテコだがその華麗でしなやかな動きを見間違えはしない。ウェイドはふらりと身を起こして呼びかけた。
「ウェブズ……?」
「……やあ、ウェイド。奇遇だね」
 ミイラ男のようなナリをした蜘蛛は相手の武器を素手でボキボキと折りながら言う。ウェイドは肩を竦め、虚無的に笑った。
「なんだよそのけったいな格好は」
「ちょっとスーツを没収されてね」
 よく見ると彼の服も血で汚れ、むき出しの手足は傷だらけだ。声もどこか弱々しい。
「どうしてここに」
「……この施設に行方不明になったミュータントが捕まっててね、潜入捜査ってとこかな」
 蜘蛛はぴょんと飛ぶとウェイドの後ろに立った。包帯の隙間から取り出したカードキーをかざすとピッと小さな音がして枷が外れ、ウェイドの腕が自由になる。
「君の背中と首の後ろ、ひどいな…………どうしたの」
「色々あってな。サンキュ、ウェブズ。愛してる」
 ウェイドはごきごきと肩を鳴らすと、落ちていた銃を拾い上げた。残弾を確認してからごく自然な仕草で倒れている男の頭に向ける。
「だ、だめだ、ウェイド!」
 慌てた声がして蜘蛛がウェイドの手を押さえた。スーツを身に付けていない手は汚れ傷ついてもなお白くて、幻覚かと思うほどあいつによく似ていて、余計に胸が苦しくなる。呼吸が荒くなる。ウェイドはうめくように言った。
「あんたが何を言おうとここにいる奴らは全員殺す。絶対に。一人残らずだ」
「どうして、」
 どうして?
 感情が溢れ出す。充血した目を見開いてウェイドは叫んだ。

「どうしてもクソもあるか!!こいつらはピーターを殺したんだぞ!!」

 口に出すと余計に現実感が増して喪失感と絶望感が押し寄せる。俺のせいで、こいつらのせいで、あいつが死んだ。こいつら全員殺して俺も死ぬ。死ねなくても死ぬ。
 蜘蛛はひどく驚いた様子で口を開いた。
「え……!?彼ら、君にそんなこと………」
 ウェイドは再び銃を構えようとした。蜘蛛は許さない。
「やらせてくれ」
「ま、まって……ウェイド、ピーターは…………」
「止めるなって!」
 揉み合った後、急にくらりと蜘蛛の身体が傾いだ。ウェイドは思わず手を伸ばして受け止める。
 片手が顔のサングラスに触れ、カシャン、と音を立てて落ちた。
 ぐったりとした身体は妙に熱く感じる。包帯からのぞく唇が苦しげに開閉した。こんなに弱っているのは初めて見る。彼もここの奴らに何かされたのかもしれない。
「ウェブズ……?」
 ぎゅっと閉じられたヘーゼルの目が薄く開く。潤んだそれに、ウェイドは思わず息を飲んだ。
 その目が、失ったはずのピーター・パーカーにひどく似ていたからだ。
 色も、優しげなその形も。駄目だ。あまりの悲しみにおかしく見えているのかもしれない。いや、目だけじゃない。もっと、すべてが。こんなの幻覚だ。
「……ウェイド、」
「……呼ばないでくれ、呼ぶな、俺は、あんたのこと、俺はあんたじゃなく、あいつが…………」
蜘蛛は大きく息を吸い込んだ。瞳に決意が揺れて。ウェイドの頬に触れた手がそのまま自分の包帯の結び目に移動し、引っ張る。
「見てて」
「…………お、おい、やめろ。やめろウェブズ」
 はらはらと包帯がほどけていく。ウェイドは止めようとしたが、やんわりと強い力で拒否された。白い布の隙間が広がっていく。ウェイドは片手で目を覆った。
「お願い、見て」
「駄目だ」
 頭を横に振ると、蜘蛛の両手がウェイドの頬をそっと包む。囁くような声が言った。
「一緒に桜見に行くって言ったじゃないか」
 ウェイドは手を離し、目を開いた。

『こちらアベンジャーズだ この施設は包囲されている 武器を捨てて投降しろ 繰り返す』

 部屋のスピーカーから、落ち着いたキャプテンアメリカの声が朗々と響く。
 それをBGMに呆然と固まるウェイドを見ながら、ピーター・パーカーは眉を下げ呟いた。見せてしまった。
「ごめんね…………」
 僕が僕でごめん。
 キャップ達を手伝いに行かないといけないのに、身体が鉛のように重い。今までなんとか動かしていた反動のように動けない。情けない。意識が少しずつ霞んで。ウェイドの焦ったような声が遠くに聞こえた。

 
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