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​第一話 花束と海

 授業の終わりを告げるベルが鳴る。
 じゃあ今日はここまで、と口にした瞬間、静かだった教室の空気が魔法を解いたようにざわざわと活気付いて動き出した。
 カップケーキを交換する女生徒。手を繋いでデートの予定を確認するカップル。夜のパーティーの相談。いつもより少しだけ浮かれた雰囲気。
 2月14日。今日はバレンタインだ。
 ローマ帝国下で聖バレンタインが殉教した日が起源だとか説は色々あるが、現代では恋人や親しい人に愛を告げたり贈り物をしたりデートをする日ということになっている。商業主義の陰謀だとか、確かにそうい面もあるだろうが結局楽しんだ者勝ちだろう。
 ピーター・パーカーは自分が学生だった頃を懐かしく回想しつつ、その話を〝彼〟とした時のことを思い出した。

 バレンタインの特集広告を見ながらこういうロマンチックなのって憧れるよねとなんとなく呟くと、あんたってそういうの好きなの?と意外そうな顔をしていた。変かな。いや、そうじゃなく、気が合うな、俺もロマンチックなのは好きだ。君って結構そういう感じだよね。なあ……あんたが良かったら、その……
 
 ……残念ながら、そんな話も煙のように立ち消えて。
 彼と最後に会ってから一か月半ほど経ったという現実に引き戻される。
 こちらが送ったメールを最後にぱったりと途切れた連絡。自分と違ってニューヨーク以外もあちこちふらふらと出歩いている男だし、急に音信不通になっても別に驚いたりはしない。お互いの生活に必要不可欠というわけでもないし、会えなくても日々は続いていく。何か約束したわけでもない。過剰に期待する方がおかしいのだ。
 授業で使った教科書をまとめながらため息をつくと、教卓の前を通った生徒がニヤリと笑った。
「パーカー先生、恋人と何かあったんですか?」
「え?いや……」
「おい、デリケートな質問だぞ、やめておけよ。先生は繊細なんだぞ」「え?前に見たでっかい人?」「何それ気になる」「今日の予定は?」
 好奇心で弾む声に声に声。皆この、若い非常勤教師の恋愛事情を耳敏く聞き付けて帰る準備をする手を止め集まってくる。彼氏がいる、という噂だけはいつの間にか担当クラス中に広まっていた。この年頃の子供たちは……いや、そうは限らないのだろうが、この手の話が大好きだ。
 無邪気なそれを聞いているとブルーな気分も薄らいでしまう。ピーターは苦笑して、「子どもにはナイショだよ」と唇に指をあてて見せた。ええ~~~っと残念そうな声が教室に響く。
実際、残念ながら……話して面白いようなことも起こっていない。何も。
 食事したり、一緒に出掛けたり、それなりに親しくはある。しかしいい仲だとか思っているのはこちらだけで、彼にとっては普通の人付き合いであり沢山いる知り合いの一人でしかないのかもしれない。好意を持たれているというのも、こちらの願望でそう見えているだけで実際はただの友人と思われているのかもしれない。二人の関係をどちらも明言したことはない。だからバレンタインに一緒に過ごせたらいいよなとか言われたことで、期待してしまったのだが。
 気まぐれだもんな。向こうは覚えているかも分からない。忙しいんだろうし。
 そもそも自分は、彼のことを何も知らない。恋人や伴侶だって実はいるのかもしれない。
 校舎を出ていく生徒たちに手を振り、携帯の画面を見て相変わらず何の返信も無いことを確かめてから外に出た。白く曇った空。冷えてわずかに湿った2月の空気。
 門を出ようとした瞬間、肌感覚で何かを感知した。
 いつでも周囲を守れる体勢で、ただの教師にしては鋭すぎる視線を気配のする方向へ向ける。

 キキキキッ!!

 次の瞬間、どこからか飛んできたゴツいバイクが物凄いドリフト走行で映画のようにピーターの前に停車した。
 平和な空気があっという間に塗り替えられる。
「乗れ!」
 長身に黒いライダースをまとい、爛れた肌をニット帽とサングラスで覆ったバイクに負けずゴツい男はそう叫んだ。ピーターはぱちぱちと目を瞬かせる。何事??
 突然現れたウェイド・ウィルソンは無駄にかっこつけてこちらを見ている。脚が長いな、とか、そうじゃなく。
 ざわめく周囲。スポットライトが当たったように集まっている視線。物凄く目立っている。急にこの場の主役になってしまったピーターはたじろいだ。
「え……?や、やだよ」
「いいから来いって!急げ!」
 彼は後ろからロボットの追手や巨大サメやらが迫っているような緊張感ある声で言うと、胸元に抱えていた真っ白い花束をぽんっと投げた。ピーターは思わず両手で受け取って、更に困惑した。
「ええ………」
 わけがわからない。わからないが、一刻も早く立ち去った方が良い気もする。何せ顔がひどく熱い。
 ピーターは火照った顔を隠すように受け取った花束を抱えたままバイクの後ろにまたがって彼の腹に手を回した。ひゅーひゅーと生徒達の囃し立てる声が聞こえる。ああ。きっとSNSでも拡散される。その騒めき全てを振り切るようにエンジンをふかして、バイクが疾走し出した。

「……なんなの、このバイク」
「これか?ファットボーイだ。ターミネーター2見たことある?シュワちゃんめっちゃかっこいいよな。バイク乗り回してトラックとカーチェイスしながらジョン・コナーを後ろにこう、」
「いや、見たことあるけどさ、そうじゃなくて、そうじゃなくて………」
 頬を掠める風はスウィングする時に感じるものとはまた違う。抱えた花束の甘い香りに混じって、彼からは血と硝煙のにおいがした。
「だってあんたロマンチックなのが好きって言ってたじゃん。俺ちゃん調べではロマンチック好きにはこういうのが喜ばれるって」
「いったいどこの情報をリサーチしたんだよ!?」
「このまま海行くのがいいらしいから海行くぞ海。コニーアイランドだ」
「ほんとにどこ調べてきたの?バレンタインの話だよね??」
 今まで何してたのかとか、聞きたいことは色々あるのにこんな無茶苦茶なのを嬉しく感じてしまっているのがもう駄目だ。
 少し間を置いて、彼はどこかおそるおそるといった感じで尋ねてきた。
「……なあ、ピーター。あんた、俺の前にもう誰かと予約入ってたりした?」
「してないよ……恋人いないし」
 わざとそういう言い方をした。ウェイドは「そうか。よかった」と短く返す。よかったって、
「どういう意味で?」
 またしばし、沈黙が流れた。バイクが気持ち加速した気がする。
 ピーターは大きく息を吐くとぎゅっと彼の腰に手を回したまま目を閉じた。


 デッドプール。ウェイド・ウィルソン。名前は知っていた。
 滅茶苦茶な奴だと、話には聞いていた。スパイダーマンの大ファンだというのも噂だけ。
 そんな彼とピーター・パーカーとして先に出会ってしまったのはただの偶然で、好意を抱いてしまったのはまったくの想定外だった。
 人生何があるかわからない、というのはもう身に染みるどころじゃなく知っているけれど。
 
 カラフルな観覧車もジェットコースターの真っ赤なレールも今は静かに眠りについて、ただ淡い夕日に照らされている。
 オフシーズンゆえ閉鎖された海辺の遊園地は妙に物寂しい。学生のころは友人達と何度か遊びに来たことがある。あのころは、グウェン・ステイシーがいた。あのころはハリー・オズボーンがいた。戻らない思い出が冷えた海風に吹かれる。
 花束を持ったままビーチに併設されたそれの横を通り、海に向かって歩きながらピーターは隣のウェイドの顔を仰ぎ見た。元がひどく整っているのだとわかる綺麗な骨格。以前は見ても良いことは無いと絶対ピーターの前でマスクを外さなかった彼だが、気にしないという言葉をやっと信じてくれたのか素顔でいる機会が増えた。そういえば彼もこの遊園地のような男だなとぼんやり思う。騒がしく賑やかで明るく見えて、時折ふっと夢の国から現実に戻ったような寂しさを覗かせる。メリーゴーランドの馬に乗っても同じ場所をぐるぐる回るだけでどこにも行けやしないことを彼は本当は知っている。
 サングラスのレンズがこちらを見る。ウェイドはごしごしと頭を掻いた。
「悪かったな。メール返せなくて。ちょっっとそれどころじゃなくてな。迂闊にあんたと連絡とってあんたに何かあったら最悪だし。いや、もう大丈夫なんだが。一応アドレス変えたから、そっち教えておく。はい、これな」
 要するに巻き込みたくなくて連絡できなかったらしい。ウェイドは、ピーター・パーカーのもうひとつの顔を知らない。誠実になるなら明かすべきなのかもしれないが、覚悟を決められないままそのタイミングを逃してしまっていた。
 アドレスに手描きのデッドプールらしき二頭身のキャラクターが添えられた可愛らしいメモを受け取ってピーターは小さく笑った。
「いや、全然気にしてないよ」
 嘘だけど。
 ウェイドはスンと鼻を鳴らした。
「それはそれで寂しい」
「寂しいんだ」
「当たり前だろ」
 遊園地周辺や冬季は営業していないシャッター通りは本当に誰もおらず閑散としていたが、ビーチが近づいてくるとこの寒いのにぽつぽつと人がいる。カップルの姿も見えた。静かな白い浜辺と波の音。
 ピーターは大股で歩いてウェイドの前に回ると、くるりと振り向いた。
「僕のこと、好きなの?」
 自然な調子で言ったつもりだったが、できていたかはわからない。割と緊張していた。
 ウェイドはゆっくりサングラスを外すと、海より青い目を細めた。
「……ああ。好きだ」
「そっか」
「ていうか、聞かなくても知ってるだろ。流石に」
「そうでもないよ」
「嘘だろ?自分でもめちゃめちゃ分かりやすいと思ってるんだが?」
「友情的な意味かもしれないし。君は仲良くなった誰にでもそうなのかもしれない。だってそれ以外の君を知らないから、判断できないよ」
 少なくともスパイダーマンにもそんな感じだろう。
 ウェイドは何とも言えない、難しい顔をした。それから一歩、二歩と距離を詰めてくる。頬に彼の手がそっと触れた。爛れた皮膚の感触がくすぐったい。
「キスしてもいい?」
 ピーターは目を閉じて、顎を上げた。
 数拍後、来ないのかと思ったころ唇が重なる感触。押すように軽く触れてからもう一度。今度は噛みつくように呼吸を奪われる。唇を割って舌が入ってきた。同じものを絡めとられ、吸われる。こんなところで正気かと思うほど深い口付けに驚いて胸板を軽く押したが、ウェイドは止めなかった。
「っ……ん……」
「……………」
 数秒だったのか数分だったのか。口を開放され、酩酊したようにくらくらする頭を両腕で抱え込まれながらピーターは大きく息を吸って吐いた。良かった。人の少ない場所で。このためにウェイドはここを選んだのだろうか。心臓がうるさい。
 ウェイドの指が楽器でも弾くようにピーターのブラウンの髪を撫でた。
「……悪い」
「平気……」
「あ~~~……せっかくここまで来たし、Nathan'sでホットドッグでも食うか」
「……うん」
 二人ともどこかぎこちない会話をしながら、奥手な高校生同士にでもなったような気分になる。そんな歳でもないのに。彼女にお酒のつまみ代わりに話したらさぞ喜ぶだろう。
 とりあえず明日が休みで良かった。思いながらウェイドの顔を見上げると、彼は爛れていても尚分かるほど顔を赤くして自分の頭を勢いよく殴った。その場に倒れこむ。
 
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