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【影踏み】

 男は酒を煽り、ハンチング帽の下の表情を崩して猫のように笑った。大きな黒い目が細まる。話上手でチャーミングだが、どこか胡散臭く、軽薄な雰囲気が漂う、そんな男だった。彼女はマドラーでぐるぐるとカクテルをかき混ぜながら会ったばかりのその妙な男とくだらない会話を続けていた。
 へえ、お姉さんのその物言い。ちょっと俺のかわいい方の弟に似てるな。親近感が湧くよ。ああ、褒めてるよ。そう、俺には弟がいるんだ。3兄弟でね。そっくりだけど、全然似てないんだ。
 かわいい弟とかわいくない弟がいるの? 尋ねると男は意味深に口の端を吊り上げた。
 いや、どっちもかわいいけど。かわいさあまって憎さ100倍ってもいうじゃん? いや、言っておいてなんだけど、それもちょっと違うかな。かわいのも、憎いのも。憎いわけじゃない。好きだが気に入らないだけ。お姉さんはそういう相手いない?
 彼女は首を横に振った。彼女にそんな面倒な関係の相手はいなかった。3年付き合っている年下の恋人を愛していたし、妹とは特別仲が悪いわけではないが、10年以上前の母親の葬式以来疎遠でしばらく会っていなかった。別に憎くも気に入らなくもない。ただ疎遠なだけ。それが別に悪いことだとも思わない。そういう人生というだけだ。
 お母さんの葬式、ちゃんと行ったんだ。
 それは行くでしょ。母親だもの。
 そうだね。
 男が頬杖をつく。ハンチング帽からわずかに漏れる黒い髪はウェーブがかっている。
 彼は昔、彼女の友人を騙した詐欺師の色男と顔は似ていないが雰囲気が少し似ていた。詐欺師は友人に顔面殴られついでに逮捕された。それを告げると男はけらけらと笑った。
 やだなあ。俺はただのタクシードライバーだよ。詐欺師は俺のこわい親父。なんてね。
 一瞬、男が視線を誰もいない空間に向ける。その目は何かを見ているようで、何も見ていないようでもあった。ただ黒く、感情が見えない。
 男は黒い皮手袋をしていていた。よく見ると甲の部分に月のような不思議な模様が入っていた。
 彼女は男に、ねえ詐欺師さん。さっきの忠告の話だけど。とドライフルーツをかじりながら尋ねた。この店で初めて話した時、男は彼女に不思議な忠告をしていた。月の出ていない夜はなんだとか。
 あれってどういうこと?
 お姉さんの身を案じてさ。優しいんでね。
 よくわからないけどありがとう。あなたってやっぱり変。
 すると男は急に声をひそめて、俺の秘密を教えようか。と言った。彼女はそのままの声で話したいなら話せば? と答えた。
 俺は実は人格が3つある男の人格のひとりなんだ。兄弟っていうのはその他の人格のことで。ついでにとある神様に代わって夜に旅する人を守るスーパーヒーローなんだ。あ、疑ってるね?
 何かの小説? コミック? 私、スーパーヒーローってあんまり好きじゃないの。
 奇遇だね。俺もだ。
 男がまた虚空に視線を向けて目を眇めた。つられてそちらを見たが、やはり数メートル先に木の壁があるだけで他にはなにもない。男は笑っているようにも顔をしかめているようにも見えた。
 やっぱりチャーミングだが、得体の知れない男だと彼女は思った。
 そういえば兄弟の誕生日が近いんだ。早めに仕事を終えて帰らないとな。
 男がぽつりと呟いた。




 空の月はちょうど半分欠けていた。

「ああ、分かってる。分かってるって。コンス。まかせろって。俺だぞ」

 傍目にはひとりでぶつぶつと呟きながら男、ジェイク・ロックリーは歩いていた。
「さっさと終えて帰らないと。思い出したけど、もうすぐ誕生日なんだ。たぶん今年は祝いたいだろ。"二人"だからな」
 くくっと笑うとコンスが何がおかしいのかと言う。だって想像すると愉快だろう。コンスも祝ったらいい。まあ、嫌がられるか。 
 ちらと見上げれば、巨大な鳥の骨を頭に持った異形が見下ろしている。変な頭。ジェイクはハンチング帽を深く被り直した。
 ふにゃりとした笑顔が脳裏に浮かぶ。スティーヴン。スティーヴン・グラント。ジェイクとは対極に位置する、年上の弟。ジェイクが冷たい路上で泥と血にまみれるのが仕事なら、スティーヴンはふかふかのベッドで健やかに眠り、マーク・スペクターの誕生日を祝うのが仕事だった。そういう風にできていた。彼はカップケーキのように甘ったるくてたまに目眩がしそうになるが、ジェイクはジェイクなりに、彼のことを好いている。ふわふわしているようでなんだかんだマークよりはしっかりしているし。あいつの理想なんだから当然か。
 終わらせたいことは終わらせればいい。そうでないことは続ければいい。ジェイクにも、おそらくスティーヴンにもできるが、マークにはそれができない。そういう性格だからだ。そのために、自分たちはいる。
 コンスがスティーヴンについて愚痴を言う。ジェイクは笑った。コンスはなんだかんだスティーヴンのことも気に入っているようだ。それがいいのか悪いのかは知らないが。自分の"身内"にはどうも面倒な奴が多い。

 裏路地を通り、物陰に身を隠し、数十分前まで酒を飲みながら話していた"彼女"を視線で追う。
 しばらくそうしていると近くに停車していた黒い車が動き出した。ジェイクは目立たないように走り出す。車から降りてきた男達が彼女の肩に触れ、凶器に彼女の顔が引きつった。
 スーツを呼ぶ。
 一瞬眩しい光で目がくらみ、その眩暈の中で肉体が白い鎧に包まれる。肉体が白の中に失われたかのように軽くなる。目立たないように、といってもこの格好になったらもう無理だ。暗い夜空の月のように何よりも目を引く。月の神の加護と支配。異変に気が付いた男達の注意が全てジェイクに向いた。ジェイクはスーツの下で笑みを浮かべ、男達に襲いかかった。



 マーク・スペクターは殺した相手の顔を一人残らず覚えているが、ジェイクはそうではなかった。そういうやり方だった。
 忘却というのは人に備わった重要な力で、それがなければ誰も勇気を持って前に進んでいくことは難しい。忘却そのものを恐れていたら? 知るかよそんなことは。とにかく一人残らず覚えていようとするマーク・スペクターに代わって、彼の嫌がっている仕事をこなし、そして忘れるのがジェイクの仕事だった。ジェイクは今の仕事が得意だった。無駄なく、要領良くこなせる。マークよりも。そのために生まれたからだ。危ないこともあったがこれまで上手くやってきた。
 気を失っている女性を外で倒れてたと言って近くの店の店員に託す。
 これとまだ、やらないといけない仕事がもう一つ。さっさと片づけて家に戻ろう。ジェイクは街灯でできた影を見ながらぼんやりと胸の中で眠っている二人のことを想った。自分の心臓のあたりに触れる。共有している心臓。
 かつて自分達3人の間には完全に住み分けるための壁があった。今はその壁の一部が壊れて、マークとスティーヴンはお互いに見て、認識し、触れ合うようになった。今はスティーヴンはジェイクを認識しているが、マークは気が付いていても見ないようにしている。影を見て、それを踏んでみたり、逃げてみたり。やっかいだが愉快でもある。愉快ではないことも勿論あるが。そういうものだった。
 神の手が肩に触れる。ジェイクは「行こう」と言った。


【楽園】

 『葦の楽園に拒まれて悲しかった?』

 少女の声が聞こえる。
「いや……」
 漂う記憶の中で、スティーヴンが首を横に振った。
「きっと悲しくはないよ。今はもう」
 悲しいことじゃないんだ。きっと。
 マークは手を伸ばした。強く手を掴む。



 マーク・スペクターはベッドの上で目を覚ました。携帯端末で日付と時間を確認する。ずれてはいないようだった。疲労感はあるが。
 少しして「おはよう」と眠そうでふにゃふにゃとした声が聞こえる。これを聞くといつも安心する。マークは表情をゆるめた。
「ああ、スティーヴン」
「それと、誕生日おめでとう」
 スティーヴンが優しい声で言う。マークはその言葉を反芻して何度かまばたきした。
 誕生日……誕生日、か。そういうものもあった。確かにそうだが。むず痒く、なんともいえない気分になる。
「ああ。……めでたいか?」「おめでたいよ」
 あたりまえだろ。マーク。
 わからないが、スティーヴンがそう言うならそうなんだろうとマークは思った。それにマークの誕生日はスティーヴンの誕生日ともいえる。同じ肉体で、彼はマークでマークは彼なのだから。
 そう思うと今すぐにこの腕で彼を抱き締めたい気分になったが、肉体がひとつしかないというのはこういう時不便だった。
 起き上がり、姿見に触れる。スティーヴンが微笑んでいる。

 お祝いがしたいとスティーヴンが言った。美味しいものを買ってきて、ケーキも買おう。僕が食べられないものでも君が好きなものでいいよ。
 いや、なに言ってんだ。おまえも食べられるものの方がいいだろうとマークは答えた。祝うなら二人で祝うんだよ。
 仕事の後、"二人"で買い物に出かける。
 マークは誕生日というものに、幼少期以来、あまり良い思い出がなかった。自分で自分の誕生日を祝おうと思ったこともない。あるわけがない。そんな発想はなかった。
「ねえ、パーティー帽もかぶる?」
「かぶりたいならおまえ一人でかぶれよ」
「それは無理でしょ」
 ケーキに蝋燭を立てたいとスティーヴンが言うので買った。一番派手な金色のにした。
 
 スティーヴンのもので覆われたテーブルを片付け、中心に丸いケーキを置く。蝋燭を立てる。火をつける。鏡を置く。照明を落とす。まるで何かの儀式のようだと椅子に腰掛けながらマークは思った。いや、儀式なのか。俺達のための。
「やっと君の誕生日を祝えるよ」
 鏡の中のスティーヴンがゆらゆらと揺れる火を見ながら言う。スティーヴンは、マークの記憶の中で見たことを気にしているんだろうと思った。気にしなくてもいいのだが。スティーヴンはそういう性格だ。
「おめでとう」
「ああ、おまえも」
 あの時をやりなおせはしない。決して。しかしこれからは変えていけるとスティーヴンは信じている。だからこれは、これからのための儀式。時の止まった誕生日を二人で上書きする。
 金色の蝋燭に赤い火が揺らめいているのは、どこか黄金の葦が穏やかな風に揺れるのを想起させた。色のチョイスを間違ったかもしれないとマークは思った。
「葦の原野に似てる?」
 スティーヴンの声にマークは難しい顔をした。
「心を読むなよ。同じ身体にいるからって」
「読んだわけじゃないよ。そんな能力無いし。なんとなく、そう思っただけ。君は見たんだろ?」
「ああ……」
 見たし、感じた。この世のすべてから解放された静けさを。穏やかさを。生が騒乱と苦しみなら、あの場所はその逆。綺麗で、良いところだった。
「……ねえ、マーク。お願いがあるんだ」
顔を上げれば鏡ではなく、向かいの席にスティーヴンが座っている。マークは目を細めた。
 蝋燭の向こう側で、金色の淡い光にその姿が映し出されている。マークと同じで、マークとは違う柔らかな表情。
「あの時、君が迎えにきてくれてすごく嬉しかった。僕は救われたよ。でも……」
 スティーヴンが一度言葉に詰まる。マークは黙って、スティーヴンをじっと見つめながらその先を待った。視線が静かに絡んで、スティーヴンが再び唇を動かす。
「……この先、いつになるかはわからない。傷を負ってか、年老いてかもわからないけど……この肉体が死ぬことがあったら。僕らは、同じ場所へは行けない。その時は…今度こそ、手をはなしてほしい。マーク」
 葦の原野がスティーヴン・グラントが失われた先にしかないのなら。そうして欲しい。
 マークは笑った。なんだそんなことか。
「俺は何度でもおまえを探しに行ってやるし、進んで船から身投げしてやる。残念だったな。スティーヴン」
 そんなケチ臭い楽園はこっちから願い下げなんだ。葦の原野におまえが拒まれるなら、こっちから拒んでやる。
 スティーヴンは泣いているような笑っているような表情をした。その頬に触れるには遠かった。

 蝋燭を静かに吹き消す。
「まあ、長生きしようぜ」




 

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