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 ウェイドは激怒した。


 必ず、かの邪知暴虐のピーター・パーカーを除かねばならぬと決意した。
 ウェイドには政治がわからぬ。。ウェイドは、饒舌な傭兵である。ボブを殴り、妄想と遊んで暮して来た。けれども蜘蛛の尻に対しては、人一倍一に敏感であった。
 きょう未明ウェイドは荒れ果てた自室を出発し、NYの摩天楼の合間を歩き躍り踊り、1里ほどはなれたこのクイーンズの市街までやって来た。
 ウェイドは今年28歳の、いょいよアラサーなNYのアイドルヒーローのファン兼ストーカーである。
 この蜘蛛は、アベンジャーズでもある饒舌な傭兵を、近々、花婿として迎える事になっていた。真っ赤な嘘である。結婚式も間近かなのである。妄想である。ともかく、ウェイドは、それゆえ、式のための衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばるでもないがNYにやって来たのだ。
 まあ実際は、単に蜘蛛とパーティーがしたかっただけなのだが。ウェイドは久しく蜘蛛に悪感情を抱かれていたのだが、最近は共に食事をしたり、映画を見たりするくらいの仲にはなっていた。蜘蛛は一度ガードを緩めると、不安になるほどにちょろいのであった。しかも貧乏性で、食事を無駄にすることをひどく嫌う。なので、準備さえしてしまえば来てくれるであろうと、ウェイドは踏んでいた。
 そうして歩いているウェイドの目に、否が応にも飛び込んでくるものがあった。巨大な看板である。どのような看板かといえば、後ろ姿の蜘蛛が、首だけ小さく振り向き、手に持った機械を見せながらポーズをキメているというものであった。そこに、大きくパーカーインダストリーズのロゴが入っている。
 ウェイドはタイムズスクエアに掲げられたそれを口を開けてしばらく眺めたあと、近くにいた若い衆をつかまえて、あれはいったいいつからあるものなのか、一週間前にここに来たときはなかったはずだが、と質問した。若い衆は、その勢いにびびって首を振った後、3日ほど前からだと答えた。
 聞いて、ウェイドは激怒した。

「呆れたパーカーだ。生かしておけぬ」

 ウェイドはおかしな男であった。スーパーの袋を、下げたままで、のそのそパーカーインダストリーズの中に入って行った。たちまち彼は彼対策で作られた蜘蛛型警備ロボットに捕縛された。そのまま離せ俺はアベンジャーズだぞなどと叫ぶので、騒ぎが大きくなってしまった。
 ウェイドは、アナ・マリアの前に引き出された。
「今日は一体なんなの?」
 アナ・マリアは静かに、けれどもうんざりした様子で問い詰めた。
「今日こそ俺の蜘蛛をあの暴君の手から救ってやるために来た!」
 ウェイドは悪びれもせずに答えた。アナは呆れ顔で小さな肩を竦める。
「彼があなたのでも何でもいいけど、パーカーなら不在よ」
「なんだと」
「話したいなら話せるけど….…」
「なら今すぐ話をさせてくれ。今度ばかりは黙ってられねえ」
 何度目の今度ばかりはなのか遠い目をしながら、アナはウェイドを案内した。

 その部屋にはモニターが取り付けられており、扉が閉まると、ややあってその画面ににっくきピーター・パーカーの姿が映った。
『やあ、ウェイド』
 画面越しでも変わらぬその緊張感の無い顔に、ウェイドは唇を尖らせた。
 オールバックにしたブラウンの髪に線の細い、人畜無害そうな顔立ち。これで微笑むのを見るとどうにも毒気を抜かれてしまいそうになる。激怒した気持ちを忘れぬよう、ウェイドは顰めっ面をしたままデッドプールのマスクを外した。短い金色の髪と、男らしく整った顔面が現れる。今のウェイドは、自分でもどういう理屈かはわからぬがアボカドのような肌になる前の、元の容姿に戻っていた。
「ようピーター・パーカー。おまえ、あれはどういうつもりだ」
『あれってなんのこと?』
 いかにも喧嘩腰で言うと、パーカーは首を傾げてすっとぼけた。予想できたことではあるがウェイドは青筋を立てて、スマホで撮影してきたポスターの写真を見せてやった。
「あの!!ウェブズの尻を見せつけるような破廉恥な広告だよ!!」
 パーカーはそれでも眉を下げて苦笑するばかりである。
『え、あれ……?破廉恥な要素あった……?君がやらしいからそう見えるだけじゃないかな……』
「言うな!」とウェイドは、いきり立って反駁(はんばく)した。
「どうせ撮影も、あんなことやこんなことして無理矢理やらせたんだろう。俺は知ってるんだぞ」
『あのさ、何度も言うけど僕と彼はそういう関係じゃないよ。彼は友人だし、僕は彼に何も強制なんてしていない』
 パーカーは落着いて呟つぶやき、ふうと溜息ためいきをついた。この、この、いかにも誤解されて困ってますな態度である。ウェイドは口惜しくて、地団駄を踏んだ。
 ウェイドは愛しの蜘蛛が自ら進んでこの手の広告塔をやるはずがない、このパーカーに弱味でも握られているに違いないと信じこむことで、感情のバランスを取っていた。実のところピーター・パーカーが悪逆非道な男などではないことは、その魂の形を直に見ることで、既に知っているはずなのだが。こじらせファンの彼はどうしても認めたくなかったのである。
 それからしばらくウェイドは構図が悪いだとか、色がわるいだとか、おまえは蜘蛛の魅力を何も理解していないだとか広告についてぐちぐち文句を言い続けたが、パーカーはうんうん、と適当に受け流すだけであった。
『そういえばウェイド、君』
「なんだよ」
『僕に用があるなら今度からビデオ通話か電話かけてくれない?アナに怒られちゃってさ。他の社員も恐がってるし』
 暴君らしい身勝手な提案にウェイドは目を剥いた。
「はあ?通話?なんで俺があんたとそんなお友だちみたいなこと」
『やっぱ駄目かぁ』
「舐めてんのか。あたりま…」
 言いかけて、ウェイドはまてよ?と止まった。
 こいつは使い用じゃないか?
「…………ああわかった。あんたの番号教えろよ。登録してやる」
『え!?いいの??助かるよ。出れる時と出れない時があるけどできるだけ……』
 妙に嬉しそうなパーカーの声を聞きながら、ウェイドはしめしめと悪い気持ちでほくそえんだ。このパーカーやろうめ。連絡先を交換し合ってあえて距離を縮めることで、このふわふわした優男な化けの皮を剥いで正体を暴いてやる。そうしてあの蜘蛛に、パーカーはこれだから信用ならぬと悲しい顔で教え、代わりにあいつをこの腕でぎゅっと抱き締めてやるのだ。

 ウェイドはその日の夜遭遇した蜘蛛に、さっそくこの計画を伝えてやった。かならずや俺がおまえの目を覚まさせてやるからな。蜘蛛は気の無い調子で返事をしながらホットドックをかじっていた。そんなつれない様子もまたたまらなく感じてひしと抱き締めようとすると、手のひらで顔面を押されて遠ざけられてしまった。



「もしもし?おいパーカー、CM見たんだがてめえ、なんだよあれは」
『ふぁ……やあウェイド。元気?ニューヨークにいるの?』
「なんであんたに教えないといけねえんだよ。ていうかそっちこそどこいんだ。なんだその締まりのない顔は。なんだそのアロハシャツは」
『今?仮眠室だけど。アロハシャツは、今日は会社がそういう日なんだよ』
「なんだよそれ」
 頭のいいやつの考えることはわからねえ。
 ウェイドは画面に映る眠そうな顔を見ながら息を吐いた。

 あれからウェイドとピーター・パーカーの、奇妙な関係は続いている。
 ウェイドはことあるごとにパーカーとビデオ通話をした。本当は愛しの蜘蛛とこんな風に話したいのだが、蜘蛛は必要最低限の連絡しか取り合ってくれないので仕方がない。
 ウェイドは通話を通してパーカーという男の悪い部分を探ろうとして、意外と大雑把なところだとか、抜けているところだとか、エリートのはずなのに随分と庶民くさく貧乏くさい部分を知った。かなりの苦労人で努力家であることを、育ての親であるおばさんを大事にしていることを知った。
 要するに、極悪非道の悪いやつであるという証拠探しには、ことごとく失敗したのである。それでも、元々寂しがりで話したがりなくせに友達の少ないウェイドはこれは蜘蛛のためだと自分にいい聞かせながらパーカーとの通話をつづけてしまっていた。断じて、気に入ってきただとか、情が移ったとかではない。
『……でさ、スーツ借りたんだけどサイズが合わなくって』
「オーダーメイドで作れよ!あんた仮にも社長だろ」
『すぐ破っちゃうともったいないし』
「破らなきゃいいだろ。どういう生活してんだ」
 ウェイドはピーター・パーカーと、くだらなく、とりとめもない話を沢山した。
 多忙だというパーカーは呼び出しに出ないこともよくあったが、ものすごく眠そうな声でわざわざかけ直して来たり、風呂中だというのに通話に出たりもする。ピーター・パーカーは、本当によく分からない奴であった。



 そんなことを続けていく中で、ウェイドの頭の中にはおかしな、ひとつの妄想がふわふわと取り付くようになっていた。
 あろうことかパーカーと愛しの蜘蛛が似ているなどと、思うようになっていたのである。
 きっかけが何かははっきりしない。しかし小さな事象の積み重ねで、いくつもの蜘蛛との共通点を見つけてしまっていた。話し方や、受け答え、考え方、科学知識や、髪の色、肌の色。身にまとう雰囲気。
 いや、だが、そんなはずは無い。
 ウェイドは自ら気がついた符号を、自ら感情のみで否定した。違うと思い込めば、都合のいい脳みそはそれを真実として認識した。



 ある日のこと。
 傭兵として外に出ていたウェイドは乗っていたヘリから落とされたので、一睡もせずに30マイルほどの路を徒歩とヒッチハイクで急ぎに急いで、ニューヨークへ到着したのは、翌あくる日の午前、まだ陽も昇りきらぬ時刻のことであった。 急いでいたのには訳がある。蜘蛛とデートをする約束を取り付けていたのである。ついでに、本当についでに、パーカーと直接会う約束も。
 雨の振りだしそうな灰色の空の下、とりあえずセーフハウスに戻ってシャワーでも浴びようなどと考えながら歩いていると、人気の少ない路に身を隠すように入る影を見つけた。
 その後ろ姿に、ウェイドはまさかと思った。しかし、ただの見間違いかもしれぬ。あいつは特徴の無い男だ。一応追いかけて覗きこむと、そこには何故か、見間違いではなく、ピーター・パーカーが壁を背にうずくまっていた。
 よれよれのワイシャツにスーツのパンツを身に付けたパーカーは突然現れたウェイドの姿にびくりと身を震わせて、「どうしてここに」と問うた。まったくもってこっちの台詞である。
 ウェイドはパーカーの、疲労困憊の姿を見て驚いた。そして、何があったのか、護衛の蜘蛛はどうしたとうるさく質問を浴びせた。
「なんでも無いよ」パーカーは無理に笑おうと努めた。
「警察と救急車呼ぶか?」
「いらない。大丈夫」
 パーカーは、また、よろよろと歩き出し、ひとりで帰ろうとしたのだが、ウェイドはそれを腕を掴んで止めた。よろめいた彼の身体がふらりと傾いでウェイドの胸の中に収まる。パーカーは大丈夫だとうめくように言っていたが、間もなく、ウェイドのに抱えられたまま呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。ウェイドは途方に暮れた。

 セーフハウスにたどり着いたウェイドはアナ・マリアに連絡を入れ、少し事情があるから、パーカーを迎えに来てくれ、と頼んだ。なるべく周囲に気づかれぬよう来てくれ、と更に押してたのんだ。アナは不審そうであったが、深くは尋ねなかった。
 パーカーはソファですやすやと眠っている。乱れた髪に汚れたシャツ。ウェイドはその肌に何ヵ所も傷があるのを見て何とも難しい顔をすると、頭の横に腰かけた。これでも大きな怪我はしていないようだ。
 暴漢にでも襲われたのか何なのか。そりゃ、有名企業の社長なのだから、動機は十分だろうが。そのための護衛ではないのか。あの蜘蛛は知っているのだろうか。
 もぞ、と小さく彼が動いた。
「ん…………ウェ……ド……」
「寝てろよ」
 パーカーは、夢見心地な様子でうなずいた。なんでそんな幸せそうな顔してんだよ阿呆。白くて骨ばった手が少しでも永くこの場にとどまっていたいとでもいうようにウェイドの手袋をしたままの手をきゅっと掴んだ。
 ウェイドはどうにもしようがない気持ちに襲われて苦しんだあと、それから逃れたくて、やっと蜘蛛に電話をした。これまでパーカーのことで蜘蛛に連絡を入れるのを、忌避していたのである。だが俺の思っているようなことは所詮妄想なのだし。
 番号を押す。着信音が鳴った。
 ソファの上で。ウェイドは首をかしげた。
 


 彼の携帯を預かっていただけかもしれないだとか。苦しい否定も脳内でしてみた。
 だが怪我も、あんなところにいたのも、護衛が来なかったのも。今まで感じた共通点も。全部全部、点が線で繋がって。妄想のはずのものが確信に形を変えていくのを止められやしなかった。

 ただただ愚かだった。愚かな上に臆病で、卑怯で意気地が無かった男の話だ。
 あの日、アナにパーカーを引き渡したウェイドは、勢いで荷物をまとめ、約束すら投げ出して、その日のうちにニューヨークから逃げ出してしまった。
 〝彼〟に失望したわけでも、まして嫌いになったわけでもなかった。そんなことはまったく、なかった。ただ、これまでの自らの行いを省みて羞恥と後悔で沈没しそうになったのである。
 パーカーとの通話もそれきりになってしまった。そのくせ、番号は消さずにとっておいた。ウェイドのような男にも、やはり未練の情というものは在る。というか、未練の情しかなかった。まったくままならぬ事である。
 気持ちの整理がついたらもう一度会いたいと、思っていた。会って、あれもこれも謝りたかった。その気持ちに嘘はなかった。
 だが、そうこうしているうちにそれもかなわなくなってしまった。

 ウェイドは故あって殺人犯のお尋ね者に、ピーター・パーカーは会社を派手に畳んで姿をくらませてしまったからだ。
 
**

 ウェイドはひとり暗い場所で横たわっていた。
 片腕はちぎれ、とっくに精神はやられていた。スーツから覗く肌もすっかり醜く戻ってしまって、美丈夫の見る影もない。
 全ての情報を絶って、ただ死体のように虚空を見続ける。
 もう、なにもかもどうでもいいというふてくされた根性と諦めに身をどっぷりとひたして、いつもの血の味を舌でころがす。俺はできる努力はしたのだ。しかし駄目だった。
 正義だの友情だのヒーローだの、俺にはもうくだらぬことだ。人を殺して金を得る、更正不能、外道で気の狂った屑。それがデッドプールではなかったか。しかも自身の愚かさゆえに大事なものから逃げ出した。
 ああ、何もかも、ばかばかしい。蜘蛛よ、俺は醜い裏切り者だ。放って置いてくれ。もうどうでもいい。情けないと笑ってくれ。

 ふと、耳に、ピロピロと携帯の着信音が鳴るのが聞こえた。緩慢な仕草で取りだし、画面を見てウェイドは息を飲んだ。
 バリバリに割れた液晶画面にピーター・パーカーの表示が光っている。よろよろと身を起こし、ウェイドはそれを夢か妄想かと思いながら見つめた。
 思えば通話をしていた時もこちらからかけるのが普通で、彼からかかってくることは1度や2度あったくらいだった。
 一体今になってなんの用だろう。向こうに用があったとしても、もう俺にはあいつと話をする資格などないというのに。
 ウェイドはぐるぐると悩んだが、手が滑ってうっかり通話ボタンを押してしまった。血に濡れた指の下に、彼の顔が映る。
『…………やあ、ウェイド。久しぶり』
「……よう、何の用だ」
 ピーター・パーカーはあちこち汚れた顔で苦笑した。アップになっているので首から下は見えない。
『随分暗いところにいるんだね』
「そっちこそ、またぼろぼろなのかよ。パーカー………ウェブズ」
 数秒だけ間があいた。
『……やっぱり気が付いてたんだ』
「あんたが迂闊にばらしたんだろ」
『ごめん』
「はあ?何の謝罪だよ。それで何の用なんだ」
 彼は大きく息を吐いてから言った。
『もしかしたら……最後かもしれないから、声を聞きたくて』
「最後?」
『今……ちょっと街が大変なことになっててさ』
 カメラが少し遠ざかった。赤い蜘蛛の巣模様のスーツを着用しているのが見える。肩口のあたりからかなり出血していた。
 ピーター・パーカーは笑った。
『君のことが、好きだよ。ウェイド。それだけ。そろそろ行かなきゃ。もう顔も見たくなかったかもしれないけど、出てくれて嬉しかった』
「……おい……おい!ウェブズ!ピーター!」
 通話が途切れた。
 急いでラジオに切り替えると、ニューヨークで大規模な戦いが起こっていると繰り返し伝えられている。
 ウェイドは暗くなった画面を見ながら呻いた。
 あいつは俺が、あいつに失望し、あいつのことを嫌うあまりに連絡を絶ったと思っているのだろう。そしてそのまま、誤解を解く機会すら失われてしまったら?二度とあいつと会えないとしたら?そうなったら、俺は、死ねないことよりもつらい。俺は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。自分が望むものになれなかったことなどそれに比べたら些細なことだ。それになんだあの言い逃げは。何が君のことが好きだよだ。そういことは、もっと早く言ってくれ。それならば俺はそれだけで生きていけるのに。

 ウェイドはゆらりと影のように立ち上がった。
 落ちていた片腕を拾い上げ、ざくっと雑に接合する。それから、武器も拾い上げ、背中に背負い、猛然と走り出した。
 あいつに会いたい。ただそれだけが脳を席巻し、すっかり冷えていた手足に血が巡って全身の筋肉を動かす。冷たい地下から抜け出したウェイドは近くに停まっていたバイクを盗むと、ワイルドスピードのごとくトラックの下をすり抜け、カフェの上を飛び越え、看板を蹴飛ばし、ニューヨークに向かってあの日の何倍も早く走った。
 ニューヨークに付くと、警察の非常線も制止も全て振り切って騒ぎが起きているというミッドタウンに向かい、瓦礫に塞がれた道を前にバイクを乗り捨て、脚で乗り越え、獣のようにひた走った。あいつに会わねばいけない。あいつに会わねばならない。いまはただその一事だ。走れ! ウェイド。
 途中警官達の不吉な会話を小耳にはさんだ。「あの様子だとスパイディも、流石に駄目かもしれない」ああ、そいつ、俺はその蜘蛛のために今こんなに走っているのだ。あいつをひとりで死なせてはならない。急げウェイド。襲いかかってくる謎の機械仕掛けの人形達を刀で一閃し、邪魔なものをマシンガンで一掃しながら走る。ウェイドの姿に気が付いた他のヒーロー連中が何か言った気がしたが、ウェイドの耳には聞こえなかった。他の奴らのことはもうどうでもいい。もはやアベンジャーズでもなければヒーローですらなく、まともな人間にはなりそこね、スーツは破けて容姿もボロボロ。何もかも失っていたが、ただひとつ、あいつへの愛は失っていなかった。腹に穴が開き、口から血が噴き出た。

 視線の向こう、積みあがった瓦礫の上に、巨大なヴィランの姿が見えた。
 落ちる真っ赤な夕日に逆光で照らされたそいつは一度重力を無視して数メートル飛びあがると、こちらに向かってくるかのように見えた。が、次の瞬間腹の下から突き出された強烈な拳にズドンと一発食らわされて動きを止め、その場に轟音を立てて倒れた。
 一瞬の静寂の後、ずるずると這うように立ち上がった細身な影の姿は、神々しかった。蜘蛛は、こんなところで死ぬほどやわではないのであった。
 彼は発射した糸でヴィランを固定し始める。真っ白になったその横に倒れ込みかけた彼をウェイドは駆け寄って抱きとめた。
「……えっ………?あれ………ウェイド………?」
「ウェブズ……」
 ウェイドは眼に涙を浮かべて言った。
「俺を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。俺はおまえのことを愛するあまり、おまえから逃げ出した。おまけに人殺しでクソ野郎で、殴ってくれなかったら、俺はおまえと抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ」
 蜘蛛は驚いた様子でグラスアイを真ん丸くし、しばし黙った後、無言でウェイドの右頬をパアンッと平手で殴った。
「……パーカーのこと、嫌いなんじゃなかったの?」
「本当に嫌いなやつとあんな風に話すかよ」
 ウェイドは蜘蛛を怪我をいたわりながら抱き締めた。
「おまえがおまえで良かった。俺はもう、おまえに愛を告げる資格もないが……」
「……本当に君って、僕並みにどうしようもないな」
 呆れたような愛おしむような声が言う。
 蜘蛛は既にかなり焼け、破れたマスクの下半分の残骸を指で剥がしてウェイドの頬にちゅっとキスをした。ウェイドの身が石のように固まる。

 そこに、そろりそろりと近寄ってきた黒いスパイダーマンことマイルス・モラレスがいかにも言いにくそうに囁いた。
「(ピーター、ピーター!カメラ!中継されてるよ!)」
 ヒーローはひどく赤面した。

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