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 階段をのぼり、壁に沿って曲がり、柱を通りすぎ、また階段をのぼる。するとがらんと広い空間に出る。崩れた像にかすれた壁画。もうとっくに覚えてしまった。こうして同じ場所をずっとまわり続けているような気がする。
 ピラミッドの中なのかどこかの遺跡なのかはわからないがまるで迷宮だった。
 大きな声で彼を呼ぶ。返事はない。確かにここにいる気がするのに、姿は見えない。声も聞こえない。
 スティーヴン・グラントは壁を背にしてその場に座り込み、くすんだ天井を見つめた。
「……会いたいよ。マーク」
 ホルスの目が借りられたなら彼を見つけられるのだろうか。



 朝だ。
 重い瞼を持ち上げ、今日もひとりで目が覚める。
 起き上がったスティーヴンは大きく伸びをし、ふらふらと冷蔵庫の横の壁に下げられたコルクボードを確認しに行った。それが最近の習慣になっている。
 理由はこれだ。

 大きなボードを埋め尽くすように貼られた沢山のメモ。手紙。あふれる文字。あふれる言葉。
 ……これはマーク・スペクターとスティーヴン・グラントの"文通"の記録だ。今はこれが彼とやりとりする手段だった。

 スティーヴンは手を伸ばし、指先で確かめるようにそっとボードに触れた。一番新しい手紙のピンを外す。
 【スティーヴンへ】からはじまる、マークらしい几帳面な字で綴られた彼の言葉。
 日々の記録に、懸念事項など情報の共有、そしてスティーヴンへの忠告。

【……それと、変な奴にはついていくなよ。急に興味を引く話をしてくる奴も疑え。
p.s.おまえの食べられるケーキを買ったから冷蔵庫に入れてある。今日中に食べるように】

 スティーヴンは嬉しく思いつつ苦笑した。マークはどうもスティーヴンのことが心配で心配で仕方ないらしい。子どもじゃあるまいし…と突っ込みを入れたくなることも多々ある。元々ではあるが、こうして文字になると余計にそう感じる。
 スティーヴンもそんなマークのことが心配だ。マークは冷静で頼りになるが繊細で不安定で、寂しがりである。スティーヴンへの過保護具合はその現れでもあるようだ。
【君は僕が見えなくて大丈夫?】と聞いてみると必ず【俺は問題ない】と返ってくる。しかしおそらく、あまり大丈夫ではない。自分たちはずっとそういうものなのだ。スティーヴン・グラントはマークを守るために生まれたのだから。
 ボードの紙はマークが都度整理して貼りつけているので過去のものもすぐに探し出すことができる。左端の方をめくると最初の頃のやり取りが残っていた。

【いるのか。スティーヴン】
【いるよ。マーク。……君が見えないよ。もしかして、君にも僕が見えないの?】
【ああ。こんなことはじめてだ。だがおまえが消えてなくて良かった。俺はおまえが……(黒く塗りつぶした跡) おまえが消えてなくてよかった】

 同じメモの中に書かれた言葉。
 あの日。マークのいない迷宮の夢から覚めると部屋が荒れて鏡は割れており、マークの声が聞こえなかった。不安だったがスティーヴンはマークがいなくなったとは思わなかった。彼が主人格なのだし、消えることがあるとしたら自分の方だろう。そう思いながら部屋を片づけようとして、このメモを見つけた。
 部屋を荒らしたのはマークらしかった。スティーヴンのことをずっと見てきたマークにとってスティーヴンが見えないというのはかなり不安な出来事だったらしい。きっと大丈夫だよ、そのうち戻るよと直接声をかけたいが、できないのをもどかしく感じた。
 それからスティーヴンはマークに手紙に書くようになった。
 夢の内容。その日の出来事や食べたものやマークに伝えたいことを。するとマークもそれに返信する形でスティーヴンに宛てて手紙を書いてきた。文通の始まりだ。やり取りする手紙は数ページにわたることから、短いメモ書き程度のことまである。
 大きなコルクボードに手紙を飾りはじめたのはマークだ。ある日起きるとこうなっていた。理由を尋ねると【この方がよく見える】からだという。寂しいからじゃないかとスティーヴンは思った。こうして二人のやり取りを一枚一枚丁寧に貼り付けて眺めながらマークは何を思っていたのだろう……。
 どうやらマークもあの迷宮の夢を見るらしい。ではあの夢で彼を見つけられれば、彼とまた直接話せるようになるのだろうか。


 仕事から帰宅したスティーヴンは眼鏡をかけ、万年筆を手に取った。腕まくりをして「よし」とひとり呟き文字を書き始める。
 書きたいことを書きたいだけ書いていくといつも内容にまとまりがなくなってしまう。文字も構成も整ったマークの手紙とは何から何まで違っていた。

【……そう、それで、夢の中でもずっと君を探してるんだ。本当に不思議だよね。君はどこにも行ってないし、ずっと"ここ"にいるはずなのに会えないなんて……。僕にとっては君を知らずにいた期間の方がずっと長いはずなのに、君の声が聞こえないのがこんなに寂しい。君がいることにすっかり慣れてしまったから】
 昼間の月みたいだ。夜と変わらずそこにあるのに、残り香のような気配しか感じることができない。

 これが一時的なことなのか、ずっとこうなのかはわからない。しかし昼はいつしか夕暮れになり、夜が訪れる。マークは悲観的だが、スティーヴンはまた二人でいられるようになると信じていた。だからそういう風に筆を進める。




 階段をのぼり、壁に沿って曲がり、柱を通りすぎ、また階段をのぼる。がらんと広い空間に出る。誰もいない。あいつもいない。
「スティーヴン……」
 力無い声で呼び、マーク・スペクターはその場にずるずると座り込んだ。
彼を探してずっとこの迷宮を彷徨っている。いるのはわかっている。しかし会うことができない。頭を抱えてうずくまる。
「おまえに会いたい……」
 今も本当は同じ場所にいて、同じ鼓動を共有しているはずなのに。



 残りスペースの問題で段々と文字が小さくなっていくスティーヴンの手紙を3度読み返して深く息を吐いた後、マークはそれをコルクボードに貼りつけた。少し離れて立つと今までのやり取りの積み重ねを視覚的に見ることができる。スティーヴンの存在を感じることができる。

 ある日、スティーヴン・グラントの姿が見えなくなった。
 マークはひどくうろたえた。彼を失ったのかと思ったのだ。俺はついにあいつのいない世界に取り残されてしまったのか? それはずっと恐れていることだった。今まで多くの人を失ったように。
 感情のまま当たり散らし、虚無感に呆然とする。しかし落ち着いて記憶を辿り、日時を確かめてみれば不自然な空白があった。マークは空白に向かって祈るように文字で問いかけた。

【いるのか。スティーヴン】

 果たして次の空白の後、返事は来た。呑気そうな文字で。
 スティーヴンは消えたのではなく見えなくなっただけだった。同じ肉体にいる。ここにいる。しかし見えない。聞こえない。幼いころスティーヴンがマークの前に姿を現してから初めてのことだった。20年、こんなことはなかった。
 ずっと、マジックミラーの片側のように一方的に彼を見続けてきた。それが当然だった。見つめながら、すべての危険から遠ざけたいと思っていた。その後色々あってお互いを認識し、会話し、理解し、共存するようになり二人の関係性は大きく変わった。スティーヴンはいつも前向きだし強い。マークよりもずっと。しかしこうして全く何をしているのか見えないのはどうにも心配で不安で落ち着かない。
 つまりはマークが、スティーヴン・グラントがいないと駄目だった。知っていた。そんなことは。しかし困ったことに……思っていたよりも駄目だったのだ。一応平気なふりをして暮らしているが、この状況にマークはかなりこたえている。手紙がなければ耐えられなかっただろう。

 スティーヴンとマークは今は手紙でやりとりを行っている。スティーヴンの字は癖字で、丸く、一目でマークとの違いがわかる。とりとめなく彼の言葉で綴られる彼の日常は彼そのもので、必ず彼のあの話し方で脳内で再生される。それが少しおかしい。
 君に会えないのが寂しいとスティーヴンは言う。マークも同じだし、今すぐ精神世界で彼を抱き締めたい。マークはコルクボードを見つめながら息を吐いた。
 あの迷宮のどこにあいつはいるんだろうか。



 二人の夢の記憶は一致しているようだ。
 石造りの迷宮のような構造物。長々と続く階段。かすれてほとんど見えない壁画。崩れた像。延々と同じような場所を歩き、お互いを探し求め、疲れて座り込んでいると目が覚める。
 マークは薄暗く冷えた空気の中を今日もひとりで彷徨っていた。まったく同じようでいて、明るさや温度や湿度などは日によって少しずつ異なっているように感じる。
 階段をのぼりながらメモでの会話が脳内に声付きで巡った。

【ずっと君の気配は感じてるんだ。遠くない場所にいるって】
【俺もだ。おまえがいるのを感じてる。だから探しまわってる】
【同じような場所をうろついてるのに会えないのは不思議だね】
【あそこにいる時間帯が違うのかもしれない】
【二人とも眠ってる時間帯はあるよね? そもそもどうしてこうなったのかな。心当たりはあるの?】

 わからない。スティーヴンのことが見えなくなればいいなんて思ったことはないし、思うはずがない。不安を覚えることならある。ある日急にスティーヴンががいなくなったら? アーサー・ハロウが言っていた、コンスが離れた時のように。突然声が聴こえなくなる。そんな日が来たら。

【でもさ、僕たちだからずっと一緒にいるけど、普通の家族や友達同士、恋人同士だったらこれが普通なんだよね…。しばらく会えないことだって当たり前にあるだろうし。気軽に通話したりできるようになるまでは皆こうして手紙で大事な人とやりとりしたりしてたわけで。そう考えると僕らって幸せだし贅沢だね。そう思わない? マーク。それとも君にとっては歩いている自分の手や足がどうなってるか見えないような不安なのかな。】
【俺はおまえを自分の手だとか足だとか思ったことはないが。】
【ごめん。例えが悪かった。僕が君の一部だっていうことが言いたくて……。僕らは同じ鼓動を共有していて、僕は君で、君は僕で、君は僕を求めていて、僕は君を求めていて……だから僕たちは離れ離れになることなんてきっとないよ。】

 スティーヴンはいつも前向きで屈託なく、希望を信じている。マークの代わりに。
 いつの間にか手に、そのやりとりをした紙を持っていた。マークはじっとそれを見つめてポケットに大事にしまい、また歩き出した。

 

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