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僕たちは互いに語る言葉を持たない。僕たちはもう長い間白い壁を挟んで隣同士に暮らしている。直接顔を合わせたことはない。目覚めて準備をして部屋から出ると、隣の2つの部屋にはいつも就寝中というランプが灯っている。僕はそれが消えているところを見たことがない。彼らは僕が寝ている時に代わる代わる目覚めて出かけるらしい。他の二人と顔を合わせたことも話したこともないが、それはわかる。そういう風にできているらしかった。
僕の部屋の白い壁には大きな鏡が嵌め込まれている。大きいという以外はなんの変哲もない鏡だ。鏡はこの広くはない部屋の閉塞感を少し和らげてくれていた。僕は話好きだが話し相手が少ない。だから鏡に向かってよく話しかける。今日あった出来事。読んだ本の話。いつか行きたい場所のこと……。そうすると誰も聞いていなくても、なぜか誰かが聞いてくれているような気がした。だから毎日鏡に向かっておやすみを言い、鏡に向かっておはようを言う。
いつか壁の向こうの隣人達と話してみたいという気持ちもある。彼らは何を思ってどんな風に暮らしているのだろう。就寝中のランプの灯ったすぐ隣のドアにはノック禁止の張り紙がされている。僕はいつもその前に立って何もできずにただ立ち去る。僕たちは互いに語る言葉を持たない。
ある夜目が覚めた。部屋の中は青く薄暗く、まるで水族館の水槽の中のように見えた。目を擦りながら起き上がり、鏡を見ると僕によく似た顔が映っていた。いや、鏡なのだから映るのは僕自身のはずだ。しかし、なぜだか自分ではないように思えた。不思議だ。僕は立ち上がり、右手の指先で鏡に触れた。鏡の向こうの僕によく似た"彼"も同じように鏡に触れる。
"彼"と指先が触れ合った。鋭く深く黒く、どこか悲しげな瞳が僕を見つめる。唇が僕とは違う形に動いた。「スティーヴン」。鏡の中の彼が僕を呼ぶ。僕は彼に呼び掛けた。「君は誰?」。すると鏡の中の彼は思いがけないことが起こったかのように目を見開いた。僕はその時にやっと、ああ、これは僕の隣人だと気が付いた。目が覚めた。朝だった。鏡にはどう見ても僕が映っていて、僕はそれに向かっていつも通りおはようを言った。
3日後のことか1日後のことか1週間後のことなのかわからない。外から戻ると隣の部屋の就寝中のランプが消えていた。初めてのことだった。ノック禁止の張り紙は変わらず貼られている。僕はどきどきしながらそれに触れた。迷ってから3回ノックをする。30秒、何も起こらなかった。どうしようかと迷っていると、急にドアが開いて心臓がはねた。僕と同じ顔をした男は眉を寄せ、「ノック禁止だと書いてあるだろ? スティーヴン」と言った。
男に腕を引っ張られ、半ば無理矢理部屋に引き入れられる。一瞬酔ったように頭がくらりとした。空気の味が違う。においが違う。男自身の中に引きずり込まれるような、不思議な感覚。彼の部屋は僕の部屋とは違い几帳面過ぎるほど整頓されており、白い壁には大きな鏡があった。
いや、鏡ではなかった。
ガラス。壁に透明なガラスが嵌め込まれて、隣の部屋が透けている。隣は僕の部屋だった。理解するまでに少し時間がかかった。僕は震える声で尋ねた。
「……ずっと見てたの?」
「ああ。おまえをずっと見てきた。スティーヴン」
「ひどい。そんな、一方的に」
「すまない」
鏡に向かって語りかけていた時、ずっとそれを見つめるこの男がいたのだ。そう思うと恥ずかしさでどうかなりそうだった。男は僕の腕を強く掴んで離そうとしない。もっと怒りたかったが、彼の瞳を見ているとその感情も行き場を失ってしまう。僕は大きく息を吸って吐いた。
「………君の名前は?」
「マーク・スペクター」
マーク・スペクター。知っていると思った。僕はずっと昔から彼を知っている。知らない。君のことなんて。
「そうだ。おまえは俺を知らない。それでよかった。……だがやっかいなことになった。今までのままではいられない。もう俺たちはただの隣人じゃない」
苦々しくマークは言う。僕はマークの頬に触れた。
「隣人じゃないならなんなの?」
マークが難しい顔をする。彼の指が髪の間に入り込む。僕は答えを待ったが、代わりに強く抱き締められるだけだった。