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 つまるところ部屋から出られなくなった。
 今朝からの話だ。目覚めて顔を洗って歯磨きして玄関の方を見たらそうなっていた。
 冗談言ってるわけじゃない。試せることは試したさ。まずドアだが、四方から鎖が伸び、隙間はダクトテープで目張りされ、ドアノブにもぐるぐると鎖が巻き付けられていた。目の高さに使用禁止の紙が貼り付けられている。不気味なことに自分の字によく似ていた。一体誰の仕業だ。鎖は引っ張ってもびくともせず、ドアノブも動かない。ダクトテープもどこの製品だか知らないが何をどうやっても剥がれなかった。それに窓だが、同じようにダクトテープで丁寧に目張りされていた。外は見えるがガラスは恐ろしく丈夫で叩いても割れなかった。銃で撃ってもひび一つ入らない。嘘だろ。
 ウェイド・ウィルソンは寝起きのパンツ一枚のまま呆然と無傷の窓を見つめ、もう一度引き金を引いた。
 発砲音と、跳ね返る高い音。静寂。静寂。今日何度目か首を傾げる。なんだこれ。奇妙なことには慣れているがこのパターンは初めてだ。
 室内を歩き回り、他に出れそうなところは無いかと探してみる。通気孔は通れる幅じゃない。あとは壁を壊すか。しかし斧で殴ってみても銃火器で撃ってみても壁にもドアにも傷一つつかない。マジックアイテムかよ。どういうことだ。
 ヘルプを求めるか。誰に?壁を通り抜けられるあの子とか?携帯端末を見てみるとなぜか圏外になっていた。PCも起動してみたがそちらもネットワークに繋がっておりません。なんでだよ。そんなことあるか?ちゃんと料金払ってるぞ。
 出られない上に連絡も取れない。世界から切り離されてしまった。SNSくらい使わせろよ。
 ウェイドは不貞腐れてどさりとソファに横たわった。天井を見ながら、ふと湧いた新たな疑問に無い眉を寄せる。そもそも俺の部屋ってこんなだったか。記憶を辿ってみる。いくつかセーフハウスはあるが、こんな部屋あっただろうか。思い出せない。ただの夢かもしれない。それならそのうち覚めるだろう……。覚めなかったらどうする。
 ごそごそと、どこからか聞こえた物音にウェイドは閉じかけた目蓋を開いた。
 足音。何かを閉める音。人の気配。どこだ。
 のそりと起き出して音の元を探す。下の方な気がする。四つん這いで耳を澄ませ周囲を見回すと戸棚の隣の壁に丸い穴が空いているのを見つけた。姿勢を低くしたまま穴を覗いてみる……ベッドから投げ出された二本の素足が見えた。
 すらりと細いそれはしかし筋肉質で、骨格も男のそれのように見える。ウェイドはおい、と呼び掛けてみた。反応は無い。大きな声を出しても無反応だった。聞こえていない?こちらは向こうの音が聞こえるのに。
 暫く見ていると脚の主が立ち上がった。だぼだぼのTシャツを脱いで下着一枚になる。視界が狭いため胸から上は見えないが若そうだ。よく鍛えられた身体はどこかで見たような気もした。どこだっけか。ていうかこれ覗きだな。今更だが。青年はそのままこちらから見えないところへ歩き去っていく。
 ウェイドは穴から離れた。隣に人が住んでいるのは分かった。この部屋の状況が伝えられれば親切な奴なら脱出を手伝ってくれるかもしれない。手紙を投げ込んでみるとか?信用してもらえるか?あれそれ考えながらウェイドはごろんと床に寝転がった。
 出る方法を探したいが、俺がここから出れなくても連絡がつかなくても心配する奴なんていないし、誰も探さない。
 動かずいると、そんな現実が冷たく降りてくる。出ない方が世の中のためまである。やめろよ。ただの事実だ。くだらない。寝たはずなのにまた眠気に襲われる。ウェイドは自分の頭を一発殴ってから床に突っ伏した。
 物音で目を覚ました。窓の外はすっかり暗くなっている。ウェイドはずるずると身体を引きずり、穴の方へ向かった。
 なんで覗くんだ。わからん。わからないまま、ただ壁に張り付く。
 暗い穴の向こうで、ボロボロの赤と青のスーツが薄明かりに照らし出されていた。見えない位置で脱がれたマスクがぽいと床に捨てられる。上半身のスーツが捲られ、身体から剥がされて同じように床に落とされた。そのまま"彼"はベッドに倒れこむ。ウェイドは聞こえないと分かっているのに息を詰めてそれをただ見ていた。覗きは良くない。良くない。見てはいけないものを見てしまった。
 なんで隣にスパイダーマンが住んでる?

 あの時は結果的に仕事を奪われる形になった。まあそれはどうでもいい。それはいいんだ。問題はそこじゃない。
 赤いライトがコンクリートの床に丸いマークを映し出す。奴が来たぞ!誰かが叫んだ。奴。
 見上げると闇の中に二つの大きな目が爛々と光っていた。獲物を狙う捕食者の目。細いフェンスにとまったその細身の影は猫科の動物のようにも巨大な蜘蛛のようにも見えた。街の人間で知らぬ者はいないだろう彼の名前は
「やあ、皆のスパイディだよ。いつも思うけどさ、僕が来て困るようなことをしなければいいんじゃないかな。君たちが平和にパーティーを開いてるだけならこんなことしなくていいんだよ?」
 明るく気の抜けた、若い男の声が言う。光に照らされ鮮烈な赤とダークブルーが浮かび上がった。地上の人間達が引き金を引く。コスチュームの青年は発射された弾丸の起動を予知していたかのように右に左に壁と壁の間を飛び回りながら軽々と避けた。戯れのようにも見えるその動き。常人の反射神経ではない。彼が両手を伸ばすとその手首から白い糸が発射された。
 情けない悲鳴と共に銃を持った男達が宙に次々と引っ張りあげられる。打撃音と沈黙。張り巡らされた蜘蛛の糸が光を反射する。
 ウェイドはその一部始終をただ眺めていた。
 我に返ったのは自分が殺そうとしていた奴らが全員宙吊りになった後だった。こんなところで会うとは。確かに彼の縄張りだが。
 ウェイドが刀を抜く前に空中をスイングしたしなやかな身体がその勢いのまま両腿でウェイドの頭を挟んだ。柔らかな感触と万力のような絶対の力で持ち上げられる。宙に浮く。スパイダーマンはそのまま一回転してウェイドを地面に叩きつけた。目に星が散る。ウェイドはあえて何もせずその衝撃を身に受けた。俺じゃなかったらこれ首折れてない?大丈夫?
 仰向けに寝転んだ身体を挟むように仁王立ちしたヒーローは腕を組んでウェイドを見下ろしグラスアイを細める。悪くないと思った。
「ナイス太腿」
「人殺しをやめろ。僕の邪魔をするな。さもなくばこの街から出ていけデッドプール」
「あら、俺のこと知ってた?スパイディ」
「知らないよ君のことなんて。名前と、さっきその刀と銃でしようとしてたことだけ」
「じゃあ覚えてくれ。俺はデッドプール、ウェイド・ウィルソン。凄腕の傭兵で人は俺をマーク・ウィズ・ア……」
「マウスに鍵かけたら?おしゃべりは嫌われるよ」
「あんたには言われたくないぜ」
 最初のまともな会話はそんな感じだった。まともと言っていいのか。向こうからの好感度はマイナス100くらい。
 今は知らない。
**
 数年前のことを思い出しながらウェイドは自分の頭を叩いた。熱いシャワーの水滴が飛ぶ。時間の感覚はよく分からない。
 やたらと急に眠くなり、頭に鉛でも詰まっているかのようにずっとぼんやりしている。脳の一部が欠けたような違和感に苛まれている。物理的に欠けるようなことをしたっけか。どんな怪我も治るが頭部の損傷は記憶を飛ばすことがあるのでやっかいだ。それで助かることもあるにはあるが。忘れたいことというのも人生には多い。どうして今こんなことになっているのかも実は思い出さない方がいいことなのかもしれない。
 脱出できなくなった部屋。電気はつくし水も出る。後はテレビとラジオも使えるようだった。外部との連絡だけが取れない。
 浴室から出たウェイドはジュースを飲み、ラジオをつけてソファに沈み込んだ。これがここでの生活パターンになってきている。冷蔵庫には大きなボトルに入ったランガーズのオレンジジュースが何本か入っており無くなる気配はなかった。ここに閉じ込められてから空腹を感じることはあまりないが、喉はやたらと乾く。そのうち血がオレンジジュースになるかもしれない。どうせ食べなくても死ぬことは無い。死ぬことはできない、だろ。 
 ラジオのノイズにまじってスパイダーマンがショッカーと戦ったというニュースが淡々とした声で読み上げられる。
 毎日毎日、名前を聞かない日はほとんどない。それだけニューヨークでは事件が起こっているし彼は飛び回っている。そういう生き物だと思えば気にならないが、あのスーツの中には人間が入っているのだ。一般人に紛れて日常生活を送っているはずの人間が。
 ウェイドはちらりと壁の下の方にあいた〝穴〟を見た。そこから見えるあの光景。また脳がおかしくなって幻覚を見ているのかもしれない。にしてはやたらとディテールが細かい。ただのコスプレイヤーかもしれない。にしてはボロボロ具合も傷痕もまるで本物みたいだ。
 だがそんなはずはないのだ。だって隣にあいつが住んでるはずないだろ。普通に考えて。本当にないのか?あいつの〝普通〟の生活がどんなものかなんて知らないのに?
 ウェイドはスパイダーマンの素顔を知らない。
 
 貧乏なのは知っている。食費を切り詰めているらしく、ウェイドがたまに奢ってやると本気で喜ぶからだ。あとは以前助けた相手がお礼にと無料でくれるとういうホットドッグをよく食べている。
 いや、なんで貧乏なんだよ。自作しているというガジェットを見るに随分頭も良いようだしその気になれば生活になど困らないだろうに。その能力があればスーパースパイにだって傭兵にだってなれるだろう。冗談で仕事に誘うと心底嫌そうに断られた。
『そういう生き方はしないしできない』
『なんで?』
『そう決めてるからさ』
 屋上でピザを食べながらあいつは言った。ウェイドは笑った。
『だよな。そんなあんた俺も見たくないし』
 馬鹿な奴だ。勝手に作った溺れそうなエゴの海で正義のために勝手に戦っている。それが羨ましく眩しく好ましく……要するにウェイドは彼に惚れていた。ウェブズを馬鹿とか言うんじゃねえ馬鹿。確かに頑固だし怒りっぽいし自分勝手かもしれないが。そんな簡単な言葉で表せるような奴じゃない。
 僅かな物音にウェイドはラジオを消した。
 窓を開ける音が聞こえる。吹き込む風と足音。ドアからではなく窓からの帰宅。妙にはっきりと聞こえるそれ。ウェイドは手の甲を唇にあて、少し悩んでから立ち上がった。
 姿勢を低くし床に這いつくばって穴を覗く。ごそごそとスーツを脱ぐ気配がする。赤と青のスーツを手にぶら下げた裸の影が視界を通り過ぎた。シャワーの音。何かをひっくり返す音。一瞬の騒がしさと静寂。しばらくするとドアが開き、バスローブ姿の青年が戻って来る。相変わらず顔は見えない。
 彼は一人で暮らしているようだ。他に誰か尋ねて来るのを見たことはない。朝はばたばたと出かけて、夜遅く、または明け方に窓から戻って来る。もっと寝ろよ。睡眠時間が足りているようには見えない。頻繁に怪我をしており自分で手当てしているようだ。スーツの上からでは分からないが、よく見ると肌には無数の痣がある。
 この穴から見える青年の日常の一部が本当にスパイダーマンのものなのかはわからない。幻覚でないのならいいことではない。だが一人きりで部屋に閉じ込められた今のウェイドには他にすることがなかった。相変わらず向こうの音は聞こえるしこうして覗くことができるが、こちらからは何をしても向こうに届かない。いっそ家具で穴を塞ごうかとも思った。しかし気配を感じる度、どうしても気になって耐えきれずこうして穴を覗き込んでしまう。
 青年は携帯端末を手に取って、ベッドに腰かけた。スパイダーマンでいる時と変わらず足癖が悪いようでよく片足だけ立てている。じっと見ていると、小さく呟く声が聞こえた。
「……ウェイドの馬鹿」
 ウェイド?
 思わず固まる。ウェイドってどのウェイドだ?俺か?それとも別に?俺は確かに馬鹿かもしれないが。声もやはり記憶のヒーローと同じで脳が混乱する。
 ウェイドの心中など関係なく、端末がベッドに投げられた。青年はそれを追うようにベッドに上がり倒れ込む。電気はついたままだ。ウェイドにはバスローブから覗く腿から下のあたりだけが見えていた。ごそごそと衣擦れの音が聞こえる。
「……んっ……、ぁ……」
 鼻にかかったような高い声に肌表面が騒めいた。小さな穴の向こうで二本の脚がゆっくりと動いて震える。……いや、駄目だろ、これは、離れないと。鼓動が早まり体温が上がる。
「っ……ぅん……ん…………、ぁ」
 青年は逆向きに転がり膝を曲げて背を丸めた。足先に力が入っているのが分かる。ウェイドは唾を飲み込んで自分の目を手で覆った。こんなのは駄目だ。穴から情けない腰つきで離れて大きく息を吐く。自分の下肢に熱が集まっているのを感じて舌打ちした。これだから俺は。
 遠ざかる直前に「うぇいど」と呼ぶ声が聞こえた気がした。聞こえない振りをした。幻聴だ。
 
 スパイダーマンが好きだ。
 自分の下着に手を突っ込み荒く息をする。どうしようもない。最初からこうではなかった。スーツの中に人間がいるのを意識するようになってからだ。憧れてはいたがヒトとして見ていなかった。言葉を交わし、殴り合い、並んで食事をし、笑ったり怒ったりするのを見るようになってから。触れたくなった。
「はっ……ウェブズ…………」
 やっぱりあの穴は塞いだ方がいいか。汚れた手をティッシュで拭い、天井を仰ぎながら思う。
 

 
 過去は暴力と冗談と幻覚だけでできている。ろくでもない思い出が多すぎてそれ以外と分離不能だ。結局まとめて捨ててしまう。それじゃいけないとは分かっているが自分じゃどうしようもなかった。要するに意気地が無いのだ。戦う気力が足りない。乾いた声で笑うのがやっとだった。肝心な何かを取り戻さないといけないが、この延長である限りどんな未来も真っ暗だ。とにかく眠い。
 死んだようにベッドにうつ伏せで寝入っていたウェイドは壁の崩れるような音で目を覚ました。
 建物全体が揺れるような振動。脳がぐわんぐわんと揺さぶられる。地震か。爆発か。部屋ごとすべて吹き飛ぶのをウェイドは想像したがそうはならなかった。少しずつ揺れが小さくなり静かになる。
 それを待ってからのそのそと起き出した。流石に隣も揺れたかと一応穴を覗いてみたが、ベッド上の足は動かない。……眠っているようだ。まさか俺の部屋だけ揺れたのか?流石にあれが聞こえたら起きるだろう。ウェイドは青年のしなやかな脚をじっと見て、脳内でその揃えられた太ももの間に指先を差し込む前に頭を振った。壁から離れる。そこまでだ。
 音はバスルームの方向から聞こえた気がした。立ち上がり様子を見に行く。
 数時間ぶりにドアを開くとそこには、バスルームの壁を砕いて大きな穴が開いていた。
 直径1メートル近くありそうな丸い空洞の中は真っ暗で覗いてみても何も見えない。一体なんだこれは。ウェイドは呆然と眺めてからゆっくりと近寄った。
 隣か外に繋がっているだろうか。顔を突っ込んでみてもぬるい風が吹き込んでくるだけだ。どこからどう見ても怪しい。
 しかしその暗闇吸い込まれるようにウェイドはゆらりと踏み出した。両手足をつき、穴の中に潜っていく。どうして?さあ。だが他に道もないし。
 吹き込んでくる風は血のような雨のような匂いがした。そういえば数年前、全身飛び散った状態から再生するとしばらくどこに行ってもこんな匂いが鼻から離れないことがあった。よく晴れた街にいる時も風呂に入っている時もあいつに会っている時も、ずっとこんな匂いが付きまとっていたのを覚えている。いつの間にか気にならなくなっていたが治ったのか慣れたのかはよく分からない。
 どこまで続くのかも分からない暗闇を4つ脚の動物のように這っていくと、不意に視界が開けた。外だ。
 ウェイドはカラフルなトンネル型の遊具の中から顔を覗かせ周囲を見まわした。すべり台。パンダの遊具。平らな広場。
 そこは公園だった。見覚えはあるような無いような。上空では見たことがないほど月が明るく地上を照らしている。だが外に出たという解放感はまったく無かった。相変わらず血と雨の匂いが漂っている。そこはかとない不穏さと取り残されたような寂しさと。
 起き上がって周囲を見回すと人気が無いように思われた公園で、誰かがブランコに揺られていた。男だ。ブラウンの髪にチェック柄のシャツ。その後ろ姿には見覚えがあった。
 ウェイドはふらふらと寄っていってその隣のブランコに足を開いて座った。190近い長身には不釣り合いな遊具がキイキイと高い音を立てる。隣の若い男はウェイドの方を見もせずに言った。
「こんな時間にこんなところにどうしたの?」
 抑揚のない声だった。感情は読み取れない。見た目より幼いようにも歳をとっているようにも聞こえた。
「そういうあんたはこんな時間にこんなところで何してるんだ?」
 青年のブランコが小さくゆらゆらと揺れる。
 ウェイドは自分の剥き出しの足を見てパンツにTシャツ一枚にスリッパのこの格好は流石に間抜けだなと今更思った。完全に不審者だ。何か穿いてくればよかった。
「僕は眠れなくて考え事をしてただけだよ。外の方が頭が回るんだ」
「夜中の公園で考え込まなきゃいけない悩みでもあるのか。恋患いとか就職失敗とか?それともヴィランの殴り方か?相談には乗らないが聞くくらい聞くぜ。パンツでブランコ乗ってる男でも良ければ。俺の耳には瞼がないから話されたら勝手に聞こえるし。俺のじゃなくて人間はだいたいそうか」
「君っていつも君だね」
 少し楽しそうな呆れたような口ぶりで青年は言う。いつも。ウェイドは首を傾げた。
「いい意味で?悪い意味で?」
「半々くらいかな」
 青年は足を曲げ伸ばししてブランコをゆるく漕ぎ始める。
「やめようと何度も思ってることがあるんだけど、何度捨てようとしても戻ってくるんだ。しまも前よりもっと強固になって」
 前に後ろに前に。
「下がって、進んで、下がって、結局同じ場所にいる。そんな気がしてくることがある。繰り返す度に揺れ幅は大きくなって自力じゃ止まれなくなる」
「わからないでもないな」
 ウェイドは揺れながらうなずいた。俺の場合は螺旋状に同じところをぐるぐる回っているようでどんどん下へ下へ悪化していくイメージだが。そのまま地底深く地獄の方まで潜っていく。ウェイドが前に揺れると青年のブランコが後ろに揺れる。スリッパが片方脱げて落ちた。
「おばさんには迷惑ばかりかけてるし、友達は危険に晒すし、君は…………だし」
 なんだって?よく聞こえなかった。尋ねようかと思ったがたった一言となのに舌がうまく動かなかった。
 青年のブランコの振れ幅がぐんぐん大きくなり、常人なら危険だろう高さまで上がって下りて上がって揺れる。風が吹く。一番高くなったところで青年の身体がふわっと飛んだ。見上げる先で見知った動作で身を翻し、羽でも生えているかのようにトン、と赤いコンバースの足先から軽く着地する。
 青年が振り向いた。まつげが濡れている気がした。顔はろくに見えないのになぜそんなことがわかるのか不思議だった。 
 ウェイドは手を伸ばそうとした。行かないでくれ、来ないでくれ。どっちだ。正面から足音が近づいてくる。見えないようにウェイドは目をつぶった。顔を両手で挟まれる。
「ウェイド、ちゃんと見てよ」
 
 額に唇が触れるような感触。おそるおそる目を開くとそこにはもう誰もいなかった。
「……ウェブズ?」
 周囲を見回すと公園ですらなくなっていた。ウェイドはどこかのベンチに座っており、周囲は暗くざわめいている。どこだここは。
 片方だけスリッパを履いた足で乾いた地面を歩く。少し進むと小さな墓をみつけた。花がいくつか添えられている。彫られた名前は。
 それを見て、たちまち悲しくなった。
 俺はまた間に合わなかったのだろうか?
 気がつくとウェイドはバスルームの床に這いつくばっていた。
 頭を振って起き上がると壁のトンネルも無くなっている。ぺたぺたと触ってみても何も無かった。頭蓋骨にヒビが入ったように頭が痛む。実際に入っているのかもしれない。
 よろよろと起き上がり、部屋に戻って壁の小さな穴を覗いた。ベッドの上には誰もいない。出かけたのだろうか?ずるずると座り込んで息を吐く。夢の夢でくらいもう少しいいものが見れないのか。
 無くしたスリッパの片方は見つからなかった。
 

 
 窓の外。ガラス越しに見るニューヨークの空は赤い。夕日の赤ではない。黒く厚い雲を燃えるような赤が染めている。
 何かが起こっているのかもしれない。大きな戦いか世界の終わりか。それにしては静かだ。ただの幻覚かもしれないし、外の音が入ってこないだけなのかもしれない。
 どちらにしろこの部屋には関係ないことだった。関係ないんじゃなく関われないのが正しいところだが。世界から切り離されたこの部屋では。
 ウェイドは窓ガラスを軽く拳で叩いてカーテンを閉めた。
 3日ほど前から隣の部屋の主は帰ってこない。
 スーツを着て飛び出していったきりだ。気になるがウェイドにはどうしようもなかった。ただ覗き見ることしかできないのだから。
 おまけにテレビはつかないしラジオの調子もおかしく、どうでもいい話題や一昔前のポップスミュージックしか入らなくなっていた。ニュースが聞けない。スパイダーマンがどうしているかもわからない。くそったれ。
 ウェイドはa~haがテイク・オン・ミー を歌うラジオを止め、穴だらけの記憶を辿った。
 目を閉じると瞼の裏に映し出されるある日の記憶。
 泣いていた。
 ビルの上で一人街を見下ろしながら。ウェイドが近付くとすぐにマスクで顔の上半分を覆ったが鼻は赤いままだった。頬に涙の線が光っていた。
 ウェイドは黙って隣の柵に寄りかかった。何があったのか尋ねたりはしなかった。後悔も悲しみも、泣きたくなることなど数えきれないくらいあるだろう。自ら他人のそれまで背負いに行っているのだから尚更。
 スパイダーマンは勝手に他人のために戦い、恨みを買い感謝され、ヒーローをしている。過去に大事な誰かを失ったらしいことは知っている。だがそれにしたって常軌を逸していると思うことがたまにある。俺には言われたくないかもしれないが。
 泣いているヒーローを慰める気のきいた言葉は浮かばなかった。そんな語彙などなかった。ここで上手いこと言える人間ならこんな人生送っていない。逆か。こんな人生を送ってきたからろくなことが言えないのか。詮ないことを考えながらウェイドはただそこにいた。夜の風が二人の間を吹き抜ける。
 しばらくして、隣で動く気配がした。腕と腕が触れ合う。蜘蛛の方からウェイドに身を寄せてきたのだ。ウェイドは石のように固まり、片腕を何度か上下させ、迷ってから青年の肩を抱いた。
『ねえ、ウェイド』
『なんだ?』
『君が……ら……』
 声が途切れ途切れになる。
 記憶にノイズが走る。古びたビデオテープのように景色に線が入り、色彩がモノクロになって明滅した。静かな声。動揺する自分。止まる時。
 ウェイドは頭を押さえた。
 それから……それからどうしたのか。彼はなんと言ったのか。思い出せない。記憶の引き出しが鍵がかかったように開かない。
 最後にあいつに直接会ったのはあの日だったか。いや違う。あの後俺とあいつは……。俺とあいつは。何を。
 不意に、ジジジ……と、消したはずのラジオから音がした。
 虫の羽音のようなノイズ。ウェイドはびくりと青い目を開いた。一瞬歌声が流れ、ぶつっと途切れるとまた意味のない不気味なノイズになる。
 消えてなかったのか?いや、確かに消したはずだ。じゃあなんなんだ。大事なところだってのに。
 ぶつぶつ言いながら上半身を起こそうとすると今度はノイズに人の声が混じったような気がした。
 声……誰の。いや、知っている。
『ぁ……うぇいど』
 ウェイドは手を伸ばしたまま、時が止まったように固まった。
 ジジ……ジ…………
『……っ……ん……うぇ……いど……………』
『ここがいいのか?』ジ…………
『んぅ…………ぁ………、だめ……やっ………』ジ……ジジ……
『はっ…………』ジジ………
 掠れた音の向こうで喘ぐ声。水音。ベッドの軋み。呼ぶ声。これはなんだ。知ってるだろ?知るわけない。
 ウェイドは大きく息を吸って吐いた。落ち着け。落ち着いて。こういう時は。いつもならデッドプールはどうする?ごそごそと銃を探した。
 ソファの隙間から取り出したデザートイーグルの銃口をラジオに向ける。それから躊躇うことなく引き金を引いた。銃声と火花。
 視界が電灯のスイッチを切ったように真っ暗になった。
 …………ラジオがニュースを読み上げている。
 気がつくとウェイドはただ立ち尽くしていた。右の手にはまだ銃が握られており、Tシャツは汗でぐっしょりと濡れている。足の感覚がない。思い出したように止めていた息を吐き出し、吸った。
 撃ったはずのラジオは壊れていない。元のままだ。
 さっきのはなんだったんだ?夢か?それにしては生々しい。背中が気化熱で冷たい。記憶喪失の次はこんな白昼夢だ。どうかしてる。
 ウェイドは自分の頭を銃身で叩いた。一回二回。頭蓋骨に響く。いてえ。それからよろよろとラジオを消そうと歩み寄る。
 指先がスイッチに触れようとした時、淡々とした女性の声がそのニュースを伝えた。
〔一昨日の爆発に巻き込まれたとみられるスパイダーマンは未だに姿をみせず……〕
 
 ウェイドはまた立ち尽くした。窓の外で日が暮れていく。

 
 死んでるなんて思っちゃいない。あいつはそんなタマじゃない。そうだ。大丈夫だ。
 ウェイドはフローリングの床に膝を抱えて座り込んだ。
 スパイダーマン死亡か!?だとか、
 2、3ヶ月に一度はそういう報道がある。ゆえに慣れてはいるが、それでも彼の死や墓をウェイドはよく夢に見た。強いが決して無敵なわけじゃない。それでも勝つ。なぜなら彼はヒーローだからだ。俺とは正反対の。
『そうかな。375度くらい回って、逆に似てるのかもよ。君と僕って』
 笑いながら蜘蛛は言った。ウェイドは真顔で自分の顎に触れた。
『目が二つで鼻と口が一つなのは似てるな』
『真面目に言ってるんだけど。それに僕の目は4つあるかもしれないだろ』
『おでことかに?それはそれで悪くないな。蜘蛛っぽくてかっこいい。それはともかくあんたが同じ場所を回ってても俺は回る度下の階層にずれてくから巡り会わねえよ』
『そうとは限らないだろ。現に、今君はここにいるし』
 隣の部屋とこの部屋を隔てる厚い壁を眺める。そうとは限るんだよなあヒーロー。隣にいようとどこにいようと俺とあんたの間にはどうしようもない壁がある。狭く視界の狭い穴からあんたを見て焦がれるだけだ。何か忘れていることがある気がする。なんだ。だから、俺はあの日……
 物音に、ウェイドは身構えた。
 隣の部屋の立て付けの悪い窓の開く音。……気のせいではない。帰ってきたのか?
 ウェイドは両手を床について這った。穴から隣の部屋を覗き見る。
 窓から差し込む淡い光。
 その中に、重そうに身体を引きずったコスチューム姿の青年が現れた。スーツは肩も腿も破けてボロボロでマスクは手に握りしめられている。だらりと不自然に垂れたままの片腕。赤い血が滴る。ふらりと、身体が傾いだ。支えを失ったように床に倒れこむ。うつ伏せになった身体は苦しそうにひゅーひゅーと鳴る呼吸に合わせて僅かに動いていた。
「…………おい、ウェブズ?」
 思わず呼び掛けたが、声は届かない。
 しばらく見ていても彼が起き上がる気配はなかった。ただ生命力が空気に溶け出すように少しずつ弱っていく。そんな風にウェイドの目には映った。
 外で戦い傷ついてそのまま戻ってきたのか。早く誰か呼べよ。正体を知った上で頼れるそんな相手がいるのかは知らないが……。
 彼は強く、並みの人間とは違う。それは知っている。しかし焦燥感が胸を焼く。
 もしこのまま彼が本当に死んでしまったら?自分はそれをただ眺めているだけだったら?そんなのはだめだ。
「ウェブズ……!おい!!」
 ウェイドは拳で壁を強く殴った。
 二度、三度。何度も。
 指が折れ手が壊れ壁紙に血が付着し傷はすぐに戻っていく。痛みを感じただけでなにも変わらない。呼びながら何かが喉の奥に詰まったいうな違和感を覚えた。何かが出てきそうで出てこない。何か忘れている。大事なことを。思い出せず余計に苛立ちがつのる。分かってるんだろ本当は。何をだ。
 ウェイドは舌打ちして立ち上がり、玄関に走った。使用禁止のメモを雑に剥がして捨て、鎖を掴んでドアを叩く。ドアノブを引っ張る。
「おい!!出せよ!!」
 行かないといけない。出ないといけない。ここに閉じ込められてから初めて、本気でそう思った。あいつがああして死にかけてるのを知ってるのは俺だけなんだ。
 隙間を塞いでいるダクトテープを剥がそうとしてもやはり駄目だった。引っ掻きすぎて掴んで剥がれる。
「ここから出せ!!出してくれ!!」
 狂ったようにドアを叩き続けていると、突然向こう側から声がした。
『今さらか?笑わせるぜ』
 聞き覚えのある声だ……少し考えてみると、どうもそれは自分の声だった。ウェイドは手を止め固まった。声は続ける。
『閉じ込められたんじゃない。立て籠ったんだ』
「立て籠った?」
『その方がいいんだろ?おまえは有害だから』
 心臓付近が鈍く痛む。頭も痛む。俺が?どうして。いや知ってるはずだ。俺は。俺は。
 そうだ。
 俺はこの部屋から出られなくなって安らぎを感じていた。認めるさ。あいつの噂を聞いて、干渉もせずにただ安全圏から生活を覗き見る卑怯な生活に安心感を覚えていた。だってそれなら……
 ラジオのノイズが、喘ぎ声が、脳内によみがえった。眩暈がする。
 ウェイドはドアに思い切り額を打ち付け、そのままずるずると両膝を折って座り込んだ。血が流れて頬に顎に伝う。すがるように両手をドアに広げた。
「出せ……」
『おまえは臆病者のクソ野郎だ』
 たとえそうだとしても。
「……あいつのところに行きたい。行かせてくれ。頼む」
 絞り出すように言った。情けない声だった。間違いかもしれない。俺なんいない世界の方があいつにとってもより良いものなのかもしれない。だがそれでも、ここから出たい。
『誰のところにだよ』
 嘲笑うような問い。わかってるだろ。今度は勝手に舌が動いた。
「…………ピーター・パーカーのところに」
 誰だ。誰だじゃない。脳がかき混ぜられるように痛む。
 ドアの向こうでため息をつく気配がした。それから乾いた笑い声がして段々大きくなる。
 なに笑ってんだぶっ殺すぞと言おうとした次の瞬間、爆音が響き閃光で目が眩んだ。
 爆風で飛ばされ仰向けに倒れる。
 頭を振ると掠れた視界の向こうでドアが無惨に吹き飛んでいた。
 破片が皮膚のあちこち刺さり血が流れる。なんで爆発した?破壊されたんだろ。どうやって。あんなに何をしても傷一つつけられなかったのに。
 ウェイドはげほげほとむせながら目をこらした。赤い影。煙の向こうにデッドプールが立っている。おい、デッドプールは俺だぞ。
「残念だがんなこと知ってる。さっさと行くぞポンコツめ。あ、これ俺への悪口か。本当にどうしようもねえな。俺なんて一人で十分だろ。二人もいたら駄目さも倍だ」
 目の前に銃口が突きつけられる。引き金が引かれる。頭がスイカみたいに粉々になり意識も脳味噌もなにもかも飛び散った。
 俺がいなくなる。
 コンクリート打ちっぱなしの壁。血とカビのにおい。冷たい空気。どこだここ。どこだ。そこはあの部屋ではなく、ウェイドは一人で倒れていた。また妙な夢だろうか。
 身に付けているのは全身ボロボロのデッドプールのタイツ。散らばった注射器。手足が冷たく、死んでいたみたいに気分が悪い。吐きそうだが胃には吐けるものすら入っていなかった。おえおえ言いながらよろめき起き上がる。
 建物の外に出ると切れかけた街灯がちらちらと光っていた。夜のニューヨーク。横を鼠が走っていく。
 ウェイドは呆然と空を見た後、自分の頭に、胸に触れ、それから身体の不調を忘れたように走り出した。
 蜘蛛のこと。彼と自分のこと。脚を動かす毎に空っぽだった記憶領域が断片的に戻っていく。
 どれが本物でどれが妄想なのか嘘なのか判別できやしなかった。だが行かないといけない。あいつの部屋に。
 部屋に戻ったピーター・パーカーは口の中いっぱいにたまった血を吐き出し、床が汚れたなと思った。後で綺麗に落ちるだろうか。大家に叱られる。フローリングに額を擦り付け長い息を吐くと、死を感じた。冷たく暗く赤く、すぐ側に、振り向けばそこに死が迫っている。これくらいのことならよくあるだろ。しっかりしろよパーカー。そう自分を励ましてもこの眠気はいかんともし難い。全身が強いGでもかかっているかのように重かった。たぶん血が足りない。いっそこのまま眠れば良くなるかもしれない。ピーターは小さく呻いて浅い呼吸を繰り返した。……とにかく街を守った。よくやったさ。
 あれからどうやってここまで戻ってきたのかは分からなかった。前回部屋を出てどれくらい経ったのかもわからない。人々に見えるところで、見えないところで、ずっと戦っていた。
 瓦礫に埋まって気絶している間にあの男の夢を見た気がする。心のように揺れる夜のブランコ。彼の横顔。ピーターは眉間にしわを寄せた。この部屋で身体を重ねた思い出が脳裏を過る。どうしていなくなったのか、今どこで何をしているのかもしらないが。
「ウェイドのばか…………」
 小さく呟いた。眠い。死にかけているせいか、無性にあの軽薄で優しい声が聞きたかった。
 彼がいなくなった心当たりが無いわけでもないけれど……僕は、別に……
 どれだけそうしていたのか。
 何かが破壊されるような音が聞こえた。ドアの方か。身体は動かない。
 スパイダーセンスは鳴らなかった。故障か。それともここ数日ずっと鳴っていたから麻痺しているのかわからない。大きな足音。近いのか遠いのか。目は霞んで耳はよく聞こえない。近づいてくる。誰かが叫ぶ。
 ピーター ピーター
 ウェイド……?
 呼んだ声は掠れてまともに言葉にならなかった。
 身体がそっと仰向けにされる。滲んだ視界の中で男が赤いマスクを剥ぎ取るように外した。至近距離で呼ばれる。色んな疑問や文句、言いたいことが脳を巡ったが言葉には出力できなかった。
 ピーターは喉にひっかかった血にむせてから、小さく笑って一言だけ言った。
「なんて顔してるのさ……」
「……残念ながらこれは元々だ」
 そっか。と、また開いていられなくなった目蓋を閉じる。声が遠ざかったがもう不安はなかった。
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