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「なあ、あんたはそれで幸せなのか?」
「なに?」
「ヒーローになんてならない世界の方が幸せか?」

 公園のベンチに並んで腰かけながら、青い瞳が戸惑うほど真剣な光を宿してまっすぐ見つめてくる。
 またよくわからない問いだ。ピーターは眉を下げて笑った。
「何度か言ってるけど、そもそも僕がヒーローだなんてありえないよ。見てのとおりさ」
 ひ弱で病弱でどんくさく目は悪いし、スポーツは全般苦手だ。ウェイドが語るような強くてヒロイックなヒーロー物語の主人公は僕じゃない。
 ウェイド・ウィルソンはおしゃべりな口を閉じて、何か言いたげに目を細めた。彼と過ごしていると、たまにこういうことがある。
 ウェイドはどうも半分空想の世界に生きていて、何かのスイッチが入ったようにまるでそれを本当の出来事のように語り始めるのだ。
 ウェイドの世界には〝スパイダーマン〟というヒーローがいて、両手から出す糸でニューヨークを飛び回りながら人助けをしており、しかもそのマスクの下の正体はピーター・パーカーらしい。スパイダーマンはデッドプール、要するにウェイドの憧れで、ウェイドに愛と正義と人生を教えてくれた存在なのだという。
 突飛な話だ。嫌いじゃないけれど。
「だってあんたはピーター・パーカーだろ?」
「そうだよ? だから……」
 ウェイドの荒れた指先が髪を撫でて頬へと滑って、止まった。
「僕はただのピーター・パーカーさ」

 どうして君はそんな悲しげな顔をするんだろう。


 
 ふよふよと赤い蜘蛛型のロボットが宙を漂う。蜘蛛のヒーローとやらにはならないが、蜘蛛のデザインは昔から好きだ。クールで機能的だし、何か不思議と心惹かれるものがある。
 ピーターはラボで働きながら色々なものを作っている。
 浮遊する小型の偵察機や、伸縮性があり靭性の強い特殊な素材。最近偶然できた液体から変化する丈夫な繊維は色々使い道が考えられそうだ。一時間ほどで消えてしまうのがネックだが。
 鏡のように磨かれた機材の表面に自分の顔が映りこむ。癖のついたブラウンの髪。よれた白衣。黒いフレームの眼鏡をかけた、顎の細い男の顔。それを見ながらウェイドの話を思い出して苦笑した。
 〝ヒーロー〟だなんて本当にあり得ない。

 両親の顔は覚えていない。中学生まではやさしいおじとおばに育てられた。それから能力のある人間を支援するとある***に引き取られて、そこで持病の治療も受けながら高校に通い、大学に入り、今は***の研究所でそのまま働いている。
 別段華やかでもなんでもない人生。子供のころは科学の天才だとか神童だとか言われたが、これくらいの年齢になればただの人だ。
 携帯端末にメッセージが入った。ウェイドからだ。ピーターはきょろ、と周囲を見回してから返信を送った。


 
 デッドプールは傭兵だ。マーク・ウィズ・ア・マウス(おしゃべりな傭兵)ともあだ名されているらしい。まあ、よくしゃべるもんな。
 今まで世界中色々なところを飛び回り色々な組織や人に雇われ働いてきたのだという。腕は確かだが情緒が不安定で、金のためならなんでもする、疎まれ恐れられている危険な男……だというのは***から聞かされた。
 彼はある日突然ピーターの前に現れた。そしてまるで、元から知っているかのように話しかけ、抱き締めてきた。驚いて引き剥がすと、彼も何故か困惑した顔をした。彼が言うにはピーター・パーカーと自分は深い仲らしい。身に覚えがない。
 完全に変な奴だと思ったが、彼はそれ以上ピーターに何かしようとはしなかったし、その後スーパーヴィランの起こした事件に偶然巻き込まれた時に危ないところを身を挺して助けてくれた。超回復能力を持つ彼でなければ本当に死んでいたかもしれない。
 ウェイドは奴の狙いはあんただっただと言った。しかしピーターはただの一般人だし、特別狙われるような心当たりはない。だがウェイドはあんたはあんただから特別なんだと言い張った。よく分からない。彼の言葉は真面目に聞いていても一部が消化不能な無機物のように理解できないままただの音声として通り過ぎていく。
 そんな感じでウェイドはいつもどこか不思議で怪しいが、それ以来定期的に会うようになった。彼は変わっているが優しいし、面白いし、一緒にいると不思議と気分が落ち着く。なのに逆に、急に苦しくなることもある。胸の奥のぼんやりと疼くような痛み。それが気になって彼と会い続けている……30%くらいは。残りの70%は彼と会いたいから会い続けている。
 
 ウェイドと会うのは***にいい顔をされない。
 ウェイド・ウィルソンは危険人物だから交流すべきではないと言われているのだ。
 持病で死んでいたかもしれないのを生きながらえているのは***のおかげだし、感謝はしてはいるが、もう大人なのに交遊関係まで管理されるのは流石に嫌だ……そう認識した瞬間、今までは何の疑問もなかった管理や拘束すべてが急に居心地悪く、煩わしく感じるようになった。普通に食べていたものが突然身体に受け付けなくなるような。
 そうしてピーターは初めて***に反抗的なことをしている。勝手につけられていた発信器は必要な時は偽の位置情報を流せるよう細工しているし、ウェイドとの端末でのやりとりも彼らには漏れないようになっている。はずだ。

 いつものように噛み合っているようないないような話を色々しながらポテトをつまんで。あっという間に時間が過ぎる。
 それから二人並んで夜の街を歩きながらまた〝スパイダーマン〟だのピザだの気体分子運動論だのの話をした。ウェイドは機嫌良さげに聞いたことのない曲を口ずさんでいた。聞いても笑うだけで何の曲かは教えてくれなかった。
 人通りの多い街の一角でウェイドがひらひらと手を振る。
「じゃあなピート。そろそろ行く。あんたも帰らないとだろ?」
「待って、ウェイド」
「ん?」
 ピーターはウェイドの手を引き、近付いて、爛れた頬に触れた。キャップの下から覗く暗く青い瞳が鋭く細まる。それを見つめながら顔を近付けた。
 唇が静かにそっと触れ、離れる。
 次の瞬間後頭部を押さえられ今度は深くキスされた。



 どくどくと、鼓動が時計の音に重なる。裸の胸が上下する。
 ウェイドは仰向けになったピーターの頬に触れた。撫でる指先の感触にびく、と思わず震える。
「こわいのか?」
「少し、ね。でも平気」
 緊張しているだけだ。大丈夫。不安よりも期待の方が大きい。
 ピーターはウェイドの後頭部に手を伸ばした。剥き出しのウェイドの肉体は強靭そうで逞しく、盛り上がった腕の筋肉はピーターの倍はありそうだ。爛れた肌は月面のようで見ていると不思議な気分になる。
 ウェイドはピーターが上半身に唯一身につけたままだった眼鏡を取り去った。
 視界の輪郭がうっすらとぼやける。素顔で見上げるピーターをじっと見つめながらウェイドは先程よりも低い声で呟いた。
「俺はあんたのことが大好きだった」
 ピーターはむっと首をかしげた。
「過去形なの?」
「そういうことじゃない。俺は……ピーター、俺はな」
 ウェイドはピーターの両肩の横に拳をついた。
「ヒーローのあんたが好きだった。あんたとウェブズはどうしたって不可分なんだと思ってた。それだけだ。だが、今のあんたになって知ったがそうじゃなくなっても俺はあんたのことが好きらしい」
 よくわからない。いつもの妄想だ。そうやってすぐ君は僕を置き去りにする。こんなに近くいてもやっぱりどこか遠い。
 大きく息を吸って吐き、ウェイドはピーターに身体を重ねてきた。
 厚い筋肉が上から獲物を押さえ込むように覆い被さり、肌と肌が触れ合う。ウェイドの肌はピーターよりも熱い。彼の塗れた唇が頬に、額に触れた。それから耳をねぶって中に舌がぬるりと入ってくる。鼓膜に直接響くぴちゃっという水音。ぞくぞくと肌表面が波打った。
「ひゃっ………」
 その間に彼の手が胸を這い、下腹部へするすると滑っていった。そのままボクサーパンツの上から敏感な箇所をぎゅっと掴み、さすり出す。快感と羞恥に体温が上がった。
「んっ……ちょ、ウェイド……っ……」
「悪い。久々で、がっついちまうかも」
「誰との……あ、や、やっぱり聞きたくない! 言わないで……!」
 他の誰としていてもピーターが口を出すことではないが、聞きたくはない。するとウェイドはおかしいような悲しいような顔をして言った。
「あんただよ。あんたを抱くのが久々なんだ」
「なん、の話……? また妄想?」
「ちがう。ピーター」
「なに……ん…………っ」
 なにもわからない。唇が重なる。深く、角度を変えながら貪るような口付けだった。言葉も思考もすべて彼に飲み込まれてしまう。おそろしくて、なのに気持ちがいい。恥ずかしいのに好きにされたい。
 布の中で勃起しているのを感じる。揉まれる度に塗れていく。切れ切れに声を漏らしていると下着を引きずり下ろされ、ウェイドに完全にすべてを晒す体勢になった。

 片足の膝裏を掴まれ、腹に近づけるように曲げさせられる。何かでぬるついた指先が後孔に触れてピーターはびくりと身を跳ねさせた。意図を悟って思わず固くなってしまう。いや、力を抜かなくては。彼とするんだろ? ピーター。ジェル状のものを擦り付けるように表面を撫でられ、小さな痺れが走る。思わずウェイドの胸板をぐっと押した。岩のようにぴくりとも動かない。
「っ……あ…やっ……ウェイド…………」
 するとウェイドはぴたりと手を止め、無い眉をあげて目を眇めた。
「なんつーか……あんたの腕力が人並みなの、やっぱ落ち着かないな……」
「は……?」
「身体の柔らかさはそのままなのに。俺がちょっと押さえただけでもう動けないだろ? 〝前のあんた〟だったら……」
 それは当然、ウェイドの屈強な肉体はピーターが押したところでどうにもなりそうにない。どちらかというとピーターの腕力は人並み以下だ。ただの研究者のピーターに何を期待しているのか。
「なにさ……僕、どうしたらいいの」
 ウェイドは複雑そうに笑って言った。
「そうだな。俺に嫌なことされてやめさせたかったら、その時はチミチャンガって言ってくれ」
「チミチャンガ……?」
「俺の好物だ。頼んだぜ」
 セーフワードということらしい。ピーターは頷いた。安全装置。きっと口にすれば彼は確実に止まってくれる。その声から、態度から、ウェイドが興奮しながらも何かを恐れているような気配をピーターは感じた。何を?

 ウェイドの指がノックするように孔を叩いてからぐっと内側に入り込んでくる。ピーターは手の甲を口に押し付けた。一本、二本。ぬめる液体と一緒に探るように侵入してきたそれは内壁を撫でて軽く曲がり、引いてはまた奥へ。異物感と奇妙な感覚に太腿が勝手に震える。
「んっ……ン……」
「どうだ?」
「それ……へんなかんじ……」
 ウェイドの指は太く、ぼこぼこしていて、驚くほど繊細に動く。勝手知ったるように内部を滑って、また奥へ。
「あっ……ん、あ…………」
 ここはそんなに感じる所だったのか。自分の身体のことなのにわからない。それともウェイドのせいか。
 ウェイドはぎらぎらと目を光らせ、獲物を狙う猛獣のように見えた。ぞくりとする。彼はピーターをよがらせることに没入し……それでいて、何かを試し、確かめているかのようだった。指を動かす度に反応するピーターの身体を観察し、じっくりと責め立てる。こういう行為に慣れているんだろうとピーターは思った。でなかったら、こんな風に……考えないようにしよう。僕以外の誰かとなんて。
 ウェイドがまた増やした指をねじり、腹の底で滾る快楽にピーターは身をくねらせた。腹筋がぴくぴくと痙攣する。
「はっ……ぁ……、あ……うぇいど…………」
ピーターは目を閉じて与えられる刺激に意識を集中させた。
 達しそうだが、限界が近づくとまた宥めるように引き戻される。溢れないようにすれすれをなぞられ、その繰り返し。じれったさに涙が滲む。つらい。気持ちいい。初めてのはずなのに、こんなに。
 ウェイドがピーターの両脚をぐっと大きく開きなおさせる。指が引き抜かれて、また液体が秘所に垂らされた。なにか……熱く固いものが肌に擦り付けられる。薄く目を開くとウェイドが唇を舐めるのが見えた。股の間では赤黒く勃起した大きな性器が凶器のようにピーターに狙いを定めている。思わず唾を飲み込んだ。下腹部がきゅっとする。
「いいか?」
 ウェイドは首をかしげた。ピーターは紅潮した顔で二度頷き、「うん」と小さく呟いた。
「いいけど、大丈夫かな……」
「何が?」
「いや、それ、入る……? 物理的に、」 
「心配するな。今から試すさ」
 ニッと唇が笑って身体の大事な部分が密着する。陰嚢と孔の間の部分を屹立でつつかれ、それから求めるように疼いている箇所にあてがわれた。落ち着こうとゆっくり息を吐くのと同時にウェイドが中に侵入してくる。
 ピーターは一瞬息を止めた。圧力に肉皺が大きく広げられ、ゆっくりと内側にウェイドが入ってくる。生々しい刺激に切れ切れに声が漏れて腰が揺れた。しかし異物感よりも満たされていく感覚の方が不思議と強い。初めてなのに、なぜかそんな気がしなかった。困惑の中、侵略するように奥へ奥へ、ぐっと根本まで押し込まれる。
「あぅっ………!!」
 衝撃で背筋が反り、喉から高い声があがる。胸の真ん中にちゅっとキスが落ちた。熱い。肌が、擦れあった粘膜が。
 目尻に溜まった涙をウェイドの親指が拭う。するとまた目の奥が熱くなって雫が瞬きと一緒にぽろぽろとこぼれ、伝っていった。
「なんで泣く? 嫌か……?」
 ウェイドは低く囁くように言った。ピーターは首を横に振る。
「ちがう……わからない…………」
 分からないが満たされる感覚が、懐かしくて嬉しくて悲しい。
 懐かしい? そんなわけない。誰かと肉体をこんな風に触れあわせたことなんてない。
 ウェイドが荒く息を吐く。脚を掴みなおされて、ずるりと粘膜のぬめる感覚があった。ぶるりと全身を震わせるとまた勢い良く押し込まれる。
「ぁあっ……!!」
「ピーター……」
「あっ……あ………ウェイド………ま、まって……やっ………ぁ……!」
 ぐちゅぐちゅと水音が鳴る。
 ウェイドは規則的な動きでピーターを貫いた。ほてった肌がぶつかり合う。思わず逃げかける腰を押さえつけられ、鋭い快感を覚える箇所を重点的に責められた。ひと突きごとに腰が震え、目がチカチカする。深く、甘く、耐え難い悦楽。
「あっ……そこ、だめっ……だめぇ……ひっ……ぁ……うぇいど……やあっ……」
「ここがいいんだろ? ……俺は〝知ってる〟んだ。ピーター・パーカー」
 僕は知らない。こんなの。知らないのに。何かを思い出しそうで、しかしそれは指先が届く前に白く深い霧の中に消えてしまう。痺れるような快感の波に飲まれてしまう。
 ウェイドの指が肌に食い込んで内部のものの角度が変わる。気持ちいい。こわいほどに。どうにかなってしまいそうだ。ピーターは助けを求めるように両手をウェイドの広い背中に伸ばし爪を立てた。繊細な箇所を繰り返し貫かれ、なすがままになりながらすすり泣きのような声が漏らすことしかできない。
「ピーター……はっ…………」
 ウェイドが小刻みに腰を揺らす。彼が達するのを感じながらピーターも背筋を大きく反らせた。すぐそこまで迫っていた快感の奔流が一気に駆けのぼってきてそのままあっけなく弾ける。二人分の乱れた呼吸音が間近で重なって、キスと一緒にまた涙がこぼれた。




 「帰らなきゃ」と言った。
 噛み痕だらけの身体をのそりと起こし、伸びをする。疲労しているし全身水を吸ったように重いが、気分は悪くなかった。眼鏡はどこだろう。
 ウェイドはそんなピーターを片手を額にあててじっと横目で見ていたが、ピーターが眼鏡を探している間に半身を起こし、二の腕を強く掴んで引き寄せた。ピーターの身体は傾いでそのまま無抵抗にウェイドの腕の中におさまる。
 ウェイドのにおい。ウェイドの感触。
 ピーターはウェイドの胸板に頬を擦り寄せた後、もう一度「帰らないと……」とつぶやいた。 帰って薬を打たないといけない。生きるのにはそれが必要なのだ。残念ながら。できることならこのままここで夜を明かしたいが、それはできない。
「それとも〝チミチャンガ〟って言えばいい?」
 冗談めかして言うと、ウェイドはため息をついて腕を緩めた。
「送るか? ダーリン」
「大丈夫。この時間に君といるのはあんまり見られない方がいいし」
「寂しいな」
「またすぐ会えるよ」
 ウェイドはどこからか取り出した眼鏡をピーターにかけさせた。視界がクリアになる。ウェイドはまたどこか、複雑そうな顔をしていた。その頬に指先で触れる。
「またね、ウェイド」


 ピーターの自宅は***の管理する物件で、高校を卒業してからずっと一人暮らしをしている。エントランスは監視されているのでウェイドは当然連れ込めない。そろそろここを出たいという気持ちもある。可能ならばだが。
 既に日付が変わってからしばらく経っている部屋でひとり、注射器に持病の薬をセットした。
 外からサイレンの音が聞こえる。事故か事件か。
 それを聴いているとざわ、と急に胸が騒いだ。首の後ろがちくちくと痛む。どうしてだろう。
 針を左腕に刺そうとして、手が止まった。毎日やっていることなのに。このために戻ってきたのに。首を振り、どうにか針を刺して注射をした。

 薬を打つといつもすぐに睡魔に襲われる。ベッドに潜り込むと夢を見た。
 飛んでいる夢だった。ビルの合間に飛び降り、地上にぶつかる前に飛び上がる。身を翻す。浮遊感。高いところはそんなに得意ではないのに。赤い人影が見えて名前を呼んだところで目が覚めた。



 目覚ましの音に起き出してふらふらと顔を洗い、着替えて、歯を磨きながら携帯端末で今日のニュースを見ると、デッドプールが指名手配されていた。複数の組織的犯罪に関与。詳細は報じられていない。
 ピーターは眉を寄せてそのニュースを読み返し、ウェイドの番号を押した。おかけになった電話は現在電波の届かないところにあるか電源が切れています。
 まったくもう。つい数時間前に会ったばかりなのに。
 
 仕事をしながらずっとウェイドのことを考えていた。
 彼については知らないことばかりだ。尋ねてもどこからが本当でどこからが妄想の話なのか分からない。ピーターとの知らない記憶の話ばかりする妙な男。これ以上関わらなければいいとも思えないし、そんなのは嫌だ。本当に悪いことをしているなら自首を促すべきだろうか。なんにせよ連絡が取れないことにはどうしようもないが。

 そうしているうちに、職場に警察がやってきた。彼らは機械のように無機的な雰囲気をまとっており、デッドプールと親しい人間に話を聞きたいと言った。最近いつ会ったのか。3日前です。今どこにいるのか心当たりは。知りません。
 ああおじさん、おばさん、僕は罪を犯しました。そして多分向こうにも信じられていない。作っているものについても尋ねられた。デッドプールに技術的な協力をしているのではないかというのだ。正直にそれは無い。彼が自分と会っている時以外何をしているのかは本当に知らないし。頼まれたこともない。
 解放はされたが、その後も監視されている気配があった。まあそれはいつもなのだが。
 まっすぐ帰宅し、端末を見る。相変わらず連絡は取れない。ソファに寝ころんでいるとまた外からサイレンの音が聞こえた。ウェイドが追われていたりするのだろうか。聞いているとまた首の後ろがちくちくと軽く針で刺されるように痛んだ。胸がざわざわする。行かないといけない。どこへ? そういえば今日はまだ薬を打っていない。ちらと棚を見たが、何故か嫌だった。身体の、血の中にいる何かが拒否しているような妙な感覚。昨晩もこうだった。
 ピーターは天井に向けて指先を蜘蛛のように動かしながら目を細めた。何かを忘れているのか、それともウェイドのおかしな話に付き合いすぎてこちらもおかしくなったのだろうか……。ウェイドは今どうしているんだろう。とにかく会って話がしたい。

 結局この日、ピーターは薬を打たずに眠ってしまった。普段ならばもの凄く焦って***に連絡するはずなのに、そういう気分にもならなかった。翌朝はむしろ身体が軽く、感覚も妙に冴えていた。ただ眼鏡をかけると何故か度が合っていない気がして視界が歪んだ。
 相変わらずウェイドと連絡は取れないし、どこかに行けば今監視している連中がついてくるだろう。ピーターは街を歩きながら周囲を見回した。こちらに注意を向けている人の気配を目には見えなくとも不思議と感じ取ることができる。聴覚が拡張されたように音がいつもよりもクリアに聞こえる。
 ふと、何か嫌な予感がして近くにいた男性を突き飛ばし一緒に倒れこんだ。同時に男性が今までいた場所に何かが降ってきて、金属音を立てながらコンクリートに弾んだ。工具セットだった。上から大丈夫かと叫ぶ声が聞こえる。……危なかった。男性にお礼を言われ、ピーターは立ち上がった。怪我がなくて良かった。しかしなぜ何が起こるか分かったのだろう。大丈夫だと言いながら、心臓はばくばくと音を立てていた。落ちた眼鏡を拾う。
『あんたはヒーローだから』
 そんなウェイドの声が耳の奥で聞こえた。

 それ以外は何もなく、表面上淡々と仕事をして昨日と同じようにただ自宅に戻った。
 落ち着かない。昨日よりも更に不思議な焦燥感が全身を包んでいた。とりあえずウェイドと話がしたい。ニューヨークにいるのかすらわからないが、今すぐに彼を探しに行きたかった。
 しかし派手なことはできない。自分が何かしでかしたらおじさんにもおばさんにも迷惑が…… 

〝おじさんは死んだはずでは? 僕のせいで〟

 強く殴られたような衝撃があってピーターはフローリングの床に両手をついてへたりこんだ。
 何を縁起でもないことを。そんなの想像もしたくない。しかし知らないはずの光景が恐ろしいほどの鮮明さでフラッシュバックする。後悔。後悔と、それから誓い。何の誓い? 
 そもそも自分の持病とはなんなのか。何の薬を今まで打っていたのか。***って何だ。当たり前に知っていたはずのことが思い出せない。当たり前に暮らしてきたこの部屋も急に知らない、いてはいけない場所のように居心地が悪く感じた。

 ここを出ないといけない。そしてウェイドに会いに行かないと。

 何かに突き動かされるままにピーターは使えるものが無いかと引き出しを漁った。硬化する液状繊維を噴射する装置…犯罪対策グッズになるかと作ったはずなのだが、今は何かそうではない懐かしさを感じた。両の手首にはめた時、チャイムが鳴った。ドアを叩く音も聞こえる。首の後ろがまた痛んで、危険を伝えていた。

 ドアが開く前にピーターは部屋着のまま窓から飛び出していた。
 17階の高さだ。自殺行為でしかない。しかし思いきり踏み切った跳躍は届くはずのない隣のビルまでぎりぎりで届いていた。
「うわわっ!」
 混乱したまま屋上からぶら下がるとコンクリートの壁に手が張り付く。一体何が起こってる? 夢でも見てるのか?
 考える暇もなくよじ登り、必死に走った。ビルからビルへ。後ろからサイレンの音が聞こえる。今日は自分を追うサイレンだ。
 身体を動かしているうちに、とんでもない状況のはずなのにピーターの精神は不思議と高揚しはじめていた。混乱と開放感。不安と自由。恐怖と喜び。どうして忘れていたんだろう。ウェイドは最初から知っていたのか?
 邪魔な眼鏡を取って捨てる。視界は更にはっきりして、街の灯りのすべてが見えるようだった。身体は重りを全て脱ぎ去ったように軽くなり、跳ぶことへの恐怖も消えている。風のように走り、ビルから飛び降りて手を伸ばす。伸びた糸で夢の中のように舞い上がる。追跡を振り切り、行きたい場所へ。

 やがて辿り着いたあるビルの屋上に赤いスーツの男が見えた。ピーターはこちらを見上げる男めがけて飛び降りると、そのまま彼に思い切り抱き着いた。ごきっと嫌な音がしてウェイドがうめき声をあげる。
「うぐっ……背骨が折れた…………」
「ごめんウェイド」
「いや、久々でそう悪くない。悪くない、ほんと、いや痛いけど」
「思い出したよ。僕のこと。君のこと」
 ウェイドはごきごきと自分で背筋を何度かひねると、デッドプールのマスクを外してピーターを見た。
「確かにあんたは貧乏だしひどい生活を送ってたし、いつも後悔してばっかでぼろぼろだった。戻りたくないんだと思ってた」
「そうかもね。でも、それが〝僕〟だから」
 目が覚めたら戻れないよ。だってもう飛び方を思い出してしまった。
 ウェイドは青い瞳で笑ってピーターを抱きしめ返した。

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