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 ひんやりと無機質な廊下を白衣を揺らしながら歩く。
 網膜スキャンでロックを解除し部屋に入ると早々に〝彼〟が話しかけてきた。
「よう、ベイビー。遅かったじゃねえか。待ちくたびれちまったぜ。暇すぎて頭の中のあんたとえっちなしりとりゲームしてた」
 ああ、今日も騒がしい。ピーター・パーカーは透明なケースに入った彼を見て目を細め、伊達眼鏡を指先で直した。
「はいはい、ちょっと黙ってて。気が散るから」
「そう冷たいこと言うなよ。泣いちまうぞ。泣いても涙だって拭えない哀れな俺ちゃんにその仕打ちはないだろ」
 頭部だけのくせにどうやっているのか軽く跳ねる。ちなみに一度倒れると自力ではもとに戻れない。
 そう、頭部……首から上。デッドプールの。見慣れた赤いマスクを被っているし、高低差の激しい話し方も正に本人。
 だが、ピーターが付き合っていたこの世界のウェイド・ウィルソンの頭部ではない。面倒なことになっているが、ピーターの人生ではこの程度の奇怪な出来事は日常茶飯事だ。軽く足を曲げると白衣の下で義足が小さく機械音を立てた。
「しけた面してると幸せが逃げるぞ」
「幸せが逃げる? そんなの僕には今更関係ないよ」
 ピーターはため息をつき、透明ケースを両手で掴んだ。作業台に移動させて開く。頭部からデッドプールのマスクを取り去ると荒れ爛れた肌と青い瞳が現れた。
「ちゃんと元の君の世界に送り返すからもう少し待ってね」
 濡らした柔らかい布巾で顔の凹凸に沿うように拭いてやる。すっと通った高い鼻。しっかりした輪郭線。頻繁に触れていたころが懐かしい。マスクを脱ぐと道化具合が40%くらい減じて見えるから不思議だ。ウェイドは口を閉じてなんとも言えない目でピーターを見た。
「……なあ、なんであんたはこっちの俺と別れたんだ? セックスが下手だったとか?」
「セックスは上手かったよ」
「まあ俺だしな。じゃあ何があった?」
「色々だよ。ウェイドは勝手で、僕も勝手だったっていうだけ」
 どっちもどっちで、どちらが悪いだとかそういうことではない。人間同士、上手く行ったり行かなかったりはするものだ。
「残念だ。今の俺に腕があったらあんたを抱きしめて慰めてやるのに」
「飛ばされてきた君が頭だけで良かったよ。余計ややこしいことになりそうだし」
 つんつんと人差し指で額をつつくと、ウェイドの頭部は無い眉を寄せて難しい顔をした。



 〝彼〟は数日前この研究所にやってきた。
 実験中の転送装置が急にエラーを起こし、存在しないはずの場所に繋がったかと思うと派手な光の渦と共にデッドプールの頭部が転送されてきたのだ。
 最初は良く知るウェイド・ウィルソンの頭が飛んできたのかと思い、ピーターは慌ててウェイドの番号を鳴らした。すると、普通にウェイドが出た。
「ほんとに君?」『俺は俺だがどうした? 何か…』「ご、ごめん、なんでもない!」『あ、おい、ピ……』と、慌てて切ってまた着拒にした。流石にひどいかと思ったが余裕がなかったのだから仕方ない。彼に知られたら余計面倒なことになりそうな気がしたし。とにかくつまり、この頭はウェイドだがウェイドじゃないのか? 頭を駆け巡ったのはマルチバースのこと。
 デッドプールの頭部はすっぱりと切断されていたが出血は止まっており、再生する気配もなかった。意識も無いが体温はあり、血も通っていて完全に死んでいるわけでもない……。肉体と切り離されているのにどうしてだとかそういうことはデッドプールがデッドプールである限り気にしても無駄だ。
 騒音を聞いた所長と警備が飛んできたが、頭部の存在はなんとか隠すことに成功した。所長は勘が鋭くピーターとスパイダーマンの関係などなんとなく気づいているような気配もあるのだが、いつも何も言わず流してくれる。そのうち恩返ししなければ。
 デッドプールの頭部はそれからまる一日後に目を覚ましてしまった。口を開くと、やはりデッドプールはデッドプールだった。うるさい。さわがしい。そしてやはり、この世界のウェイドとは違うウェイド・ウィルソンらしかった。別のアースから何らかの原因で転送装置によって飛ばされてしまったようだ。ちなみに頭部を切断したのはあちらの世界の魔物らしい。ピーターの転送装置のせいでもげたのではなくて良かった。再生しないのはその切った魔物のせいなのか、それとも身体と頭部が別アースに泣き別れになってしまったからなのかはわからないが。

 とにかく、このウェイドの頭部を元のアースに戻さないといけない。リードなどにも助言してもらいながら今装置を修理しているところだ。
 目下の問題は、この頭が延々話しかけてくるのでなかなか集中できないこと。
「じゃあ俺ちゃんを別のとこにでも押し込めておくか眠らせておけばいいだろ。寂しがり屋なのか?」
「そうかもね。こうやって君のおしゃべりをラジオ代わりに聞いたりくだらない話するのも久しぶりだし」
「……あんたってさ、こっちの俺のことまだだいぶ好きだろ」
 ピーターは答えずに曖昧に笑って流した。修理中の装置がパチパチと音を立てる。
「君の世界の僕は何してるの?」
「スパイダーマンしてる。あと俺にメロメロゾッコンで困ってる」
「へえ。そうなんだ」
「おい、突っ込めよ」
「違うの? でも素顔は知ってる仲なんでしょ?」
「素顔は確かに色々あって知ってるが、あいつが俺にそんな風に惚れるわけねえだろ。だってスパイダーマンだぞ。ほんとあんたはなんでこっちの俺となんて付き合ってたんだ?」
「う~ん、なんだろね。君はこんなにへんてこでおかしくてうるさくてややこしくて下品で面倒なのにね」
「流れるように悪口言うな」
 ウェイドはぴょんぴょん跳ねて抗議した後、急にすんと静かになった。マスクの白い目を眇めて言う。
「その脚はいつ?」
 ピーターは自分のズボンの裾から覗いている合金製の足首をちらりと見た。
「二年ぐらい前に」
「それがきっかけで別れた?」
「そういうわけでもないけど。ゼロでもないかな。15%くらい。でも性能いいし、見てのとおりそんなに困ってないよ」
 普通の人間だったら問題ないところ、ピーターの筋力ゆえに壊してしまうことがたまにあるだけで。今付けているのは日常生活用だが、ヒーロー活動用のものは改良と訓練を重ねた結果、元通りとはいかないが街を飛び回ってもさほど不自由さを感じなくなった。
「そこまでしてもあんたは続けるんだもんな~、あんたのことが好きだったらひやひやするどころじゃないよな」
「君は止める?」
「止めたってどうせ聞きゃしないだろ。それくらいは知ってるさ」
 ウェイドは肩が無いくせに肩を竦めるような頭部の動かし方をした。



 更に数日たって、装置がなおった。
 それと、転送元のアースが特定できたため向こうの世界の〝スパイダーマン〟と連絡が取れた。この通信はリードに頼んだのだが、向こうのスパイダーマンは転送後のデッドプールの頭部を回収してくれると言っているらしい。
「だってよ。良かったねウェイド。戻したところでそのまま君が放置されるのも嫌だし助かった」
「スパイディが俺の迎えに……」
「君のこと心配してたかも」
「あいつと同じ顔と声でそういう期待させること言うなよ。俺の生首がそのへんに転がってたらやばいからだろ」
「卑屈だよね、君」
「こっちの俺はそうじゃないのか?」
「……まあ、卑屈だね」
 ウェイド・ウィルソンは自己肯定感が低く、すぐに自分を否定しようとするところがあり、彼の道化た態度はそれゆえの部分がある。半面傷ついた人間や弱い立場の人々には優しい。はじめピーターはデッドプールのことをただ苦手に思っていたが、接するうちにそんな色々な面を知っていった。だから……
 ピーターは持ち上げたデッドプールの額にちゅっとキスをした。マスクの目が驚いたように丸くなる。
「じゃあねウェイド。そっちの僕にもよろしくね」
「お、おお、ああ……あんたこそ、自分を大事に達者でな。なんかサロメみたいな絵面になってるが」
「ははは。僕は君の頭なんて所望しないよ。事故とはいえこうして会えて楽しかったけど」
 
 転送先設定OK。
 スイッチを入れるとまぶしい光がはじけて渦を巻き、デッドプールの頭部はその中に消えていった。思わず目を閉じて開くと、既にそこには何もない。……成功だ。
 ほっとしたのと同時に寂しさが胸を吹き抜けた。行ってしまった。ピーターのウェイドではないが、あんな風に彼と会話するのは久しぶりだった。付き合っていたころの懐かしい記憶が胸を過って更に感傷的な気分になる。

 不意に、警報が鳴った。廊下の向こうが騒がしくなる。スパイダーセンスは反応していないが……。
 何事かと扉を開けて見に行くと、騒ぎの中心に赤い全身タイツの男がいた。タイツはところどころ破けてボロボロで、大きな武器を背負い、何故か蔓系の植物を身体に巻き付けている。
「ウェイド!?」
「ピーター…………」
 マスク越しでも鋭い視線がこちらに向く。ピーターは警備員に勢いよく謝りながらウェイドの腕を引っ張り、とりあえず人目につかない場所に強引に連れ込んだ。

「君はいったいなにしてるんだよここで!」
「ピーター……無事で良かった……」
「は?」
「俺に急に慌てた感じで電話してきて切ったからあんたに何かあったのかと思って出先から急いで来たんだが殺されたりしてて結局数日かかっちまった」
 要するにピーターからの半端な電話のせいで心配してはるばる確認しに来たらしい。ピーターは頬の温度が僅かに上がったのを隠すように一度咳払いしてから言った。
「ああ……あれは、その、ごめん。もう片付いたから、平気だよ」
 確かにあんな風に電話したことは今までなかったかもしれない。しかし喧嘩別れして以来ずっと微妙な関係なのにわざわざやって来るなんて。
「いや、元気ならいいんだ。元気なら。俺があんたに大変なことが起きる夢見ちまってそれでだな、もう前みたいなのはごめんだからこう……」
 ウェイドの手が不自然に宙で踊る。ピーターは息を吐いて伊達眼鏡を外すと、ウェイドに抱きついた。うん。身体があるってやっぱりいいな。
「……ありがとう。嬉しいよ」
「お、おう…………あの……ピーターさん……?」
 ウェイドは数秒硬直した後、おそるおそるピーターの背に手をまわした。それがなんだかおかしくてピーターは笑った。

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