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 また今度、それまで君が僕のことを好きだったらね。
 だなんて。
 何言ってんだよ。好きじゃなくなるわけないだろ?

1日目

 いいか。よく聞けクソ野郎。おまえの記憶は一週間しか持たない。
 冷蔵庫のハムは早めに食え。仕事についてはパソコンを立ち上げてメールを見ろ。パスワードはBig_fan_of_Spidey_lovelove1225だ。 
 鏡は落ち着くまで見るな。絶対だぞ。
 マスクをかぶれ。それがおまえの顔だ。おまえは別名デッドプール。俺はおまえだ。
 それと……
 
 セーブデータが破損しているようです。
 目を閉じて開いても、頭をはたいてみても。昨日のことも思い出せない。あるはずのものが丸ごとなくなってしまったような喪失感。何か大事なことを忘れている気がする。にしてもなんだこの汚ねえ部屋は。無造作に置かれた銃にリンゴに刺さったままのナイフに何かも分からない錠剤に、壁に貼られた謎の覆面野郎のポスター。どこかの女の部屋に転がり込んだってわけでもなさそうだ。
 いやこういう趣味の女もいるのかもしれないぞ。どんなだよ。いやたぶん俺の部屋だろこの感じは。なんだか頭の中がずいぶん騒がしい。思考がまとまらない。
 ウェイド・ウィルソンは頭を掻こうとして、髪が無いことに気が付いた。違和感を覚えて手を見ると、皮膚表面は信じられないほど荒れ爛れ変色している。呆然とそれを見て、パンツ一枚の自分の身体に目を落とす。手だけではなく全身、脚の指の先まで同じ状態だ。なんだこれ。
 ウェイドはふらふらと立ち上がると洗面台に向かい、映し出された顔を見て、思い切り嘔吐した。
 
 鏡を割った拍子に物理的に砕けた拳がみるみるうちに再生していく。
 〝俺〟が残したメモを読むに、これはヒーリングファクターというやつのせいらしい。肌がアボカドみたいになっているのもこれの副作用だとか。
 ウェイドはそれを隠すために置いてあった赤い妙なマスクを被り、タイツで身を覆った。サイズはぴったりだ。その上にズボンを穿き、フード付きのパーカーに腕を通す。冗談じゃねえぞまったく。悪い夢を見ているんじゃないかと一度銃を咥えて引き金を引いてみたが、床を無駄に脳髄で汚しただけで気が付くと同じ状態に戻っていた。肉も骨もいくらでも再生するのに顔はこのままだなんてまったく理不尽だ。
 しかしそれでも段々と、そういえばこういうもんだったかもしれないと、思い出せはしないがそんな気がしてくる。
 デッドプール。デッドプール。プールってなんだよ。
 壁にかかったカレンダーを見れば日付は知っているそれから20年近く経っていた。メモを信じるならば、そこの間の記憶がごっそり消えてるということになる。一週間ごとにリセットって、どういうことだよ。
 随分薄型になったテレビのスイッチを入れると画面に赤い覆面姿の人間が映った。ウェイドのものと少し似ている。この部屋に貼ってあるポスターの奴だ。体型から男なのは分かるが、骨格も肉付きもごつさはなくしなやかで細い。画面下にはテロップでスパイダーマンがヴァルチャーを捕らえる、と出ていた。ポスターにも書いてあるが、どうやら彼は蜘蛛らしい。人間業とは思えない動きでビルとビルの間をぴょんぴょんと飛び回る姿を見て、何故か胸が騒いでずきずきと痛んだ。
 メモの続きを読む。

 ……スパイディに迷惑をかけるな。悲しい顔をさせるな。

 自分のものらしい字で、何度か書いてぐちゃぐちゃに消した下にそんな風に書かれている。あの蜘蛛男は一体俺の何なのだろう。あいつなら俺のことを何か知ってるんだろうか。ウェイドは思う。
 会いたいな。
 不意に、そう思った。違う。会わないといけない。行かないと。今すぐ。この蜘蛛に。会わないと。会って。そして。どうすればいい?わからない。しかし脳内を閉じられないエラー表示のように彼に会いたいと言う思考が埋め尽くしていく。
 気が付くと立ち上がり、壁に掛けられていた日本刀を背負うと慣れた手つきで銃の手入れを始めていた。出かけるにはこいつが必要だ。そうだったはず。
 しばらくそうしているとひどい有様の顔を見たショックや混乱もおさまって、鼻歌が漏れ出す。
 俺って狂ってるのかもしれねえ。いや自覚があるうちは問題ないさ。そういう問題なのか?そんなことよりも。蜘蛛男のストラップのついた携帯電話が形容し難い音楽と共に震えた。画面を見ると赤い背景に青い蜘蛛のマーク。メッセージはおはよう。
 おはようおはよう。あんた誰?


2日目 

 ふらふらとあてどもなく、亡霊のように街をさ迷い歩く。
 本当にこんなんで会えるのか?知らん。
 会いたい、とおそらく彼だろう相手に送ったら会いに来てよ、と返ってきた。場所はわからない。教えてくれない。なんて不親切な奴だ。誘い受けかよ。昨日は結局会えなかったし。
 ウェイド・ウィルソンはマスクの下で嘆息した。
 一晩経っても悪夢は覚めない。顔もこのままだ。勘弁して欲しい。イケメン顔を返してくれ。せめて普通に外を歩けるくらいの顔にしてくれ。鏡を見る度に頭がおかしくなるため、ウェイドは家でも外でもずっとマスクを被っていることにした。いやこのマスクは本当に役に立つししっくり来る。実家のような安心感。いや実家がどこかもわからんが。
 そんなわけでマスクを被り、じっとしていると妙な焦燥感で銃を振り回して暴れだしたくなるので、昨日も今日も蜘蛛を探して街に繰り出している。普段着にマスクに背中に銃という明らかに怪しい出で立ちだが意外と注目されない。皆普通にスルーしていく。街にはあの蜘蛛のコスプレをした大道芸人がいたりするので同類だと思われているのかもしれない。
 今の街のことはわからないはずなのにぼんやり知っていた。景色は当然20年前から変化しているところも多いが、どうやら記憶は完全に消えたわけではなく一部マーブル模様のように過去のものと最近のものが混ざっているらしい。余計に混乱する。
 顔のことだとかなんだとか、気になることは色んなあるが……とりあえずとにかく、あの蜘蛛だ。蜘蛛。彼に会わないと始まらない、気がする。なんで?さあ。
 調べたところによるとあの蜘蛛はスパイダーマンというご当地ヒーローらしい。誰もその素顔は知らない、人助けが趣味の怪人物。その正体についてはシールドとかいう組織のエージェントだとか蜘蛛の妖精だとか実はロボットだとかネット上では色々と噂されているがどれも信憑性はなさそうだった。自分のこと調べる前にあの蜘蛛のことばっかりかよ。なんでこんなに執着してるんだ?わからん。何がどうなってるか知るには最近の自分を知っている人間に会うのが手っ取り早いし、あいつなら知っている気もする。だけど今更どんな顔してあいつに会えばいいんだよ。今更?どういう意味だ?脳内が混線している。

 ドオンッ!

 と、突然地面が揺れた。見れば遠くで煙が上がっている。何かあったらしい。ウェイドは走り出した。チャンスだ。こういう時にはあいつが来る。そうなのか。初めて知った。知ってるだろ。あいつのことだぞ。

 ※

 息を切らしながら階段を駆け上がり、ビルの屋上に到達したころには日が暮れていた。
 事件現場にたどり着いた時にはもうお目当ての蜘蛛は去っており、散々探し回ってから流石にキレ気味にあんたどこいるんだよとメッセージを送るとやっと写真が一枚送られてきた。
 景色からするにたぶんここだ。違ったら悲しい。くじけるかも。
 ドアを開け、きょろきょろと視線を巡らせていると、急に目の前に逆さまの顔が降りてきた。
「うわっ!」
「やあ、二日目のウェイド」
「ちびるだろ驚かせるな」
 彼は「ごめんごめん」と悪びれない様子で言いながらくるんと回り、独特な動作で床に降りた。テレビや写真などでは細く見えたが、こうして実物を前にするとスレンダーではあるが思ったよりも肉感的だ。無駄なものがなくしなやかな、猫科の野性動物ような印象を受ける。まあ猫じゃなく蜘蛛なんだが。とりあえずエロい。こんなぴったりスーツで大丈夫か。
「調子はどう?」
「頭の中がうるせえしお肌の調子が最悪だしあんたのせいでめっちゃ疲労してる」
「悪かったよ。今追いかけてるヴィランがなかなかやっかいでさ……片付かなくて。"この前"よりは落ち着いてるね。よかった」
 ほっとした様子で蜘蛛が言う。よく見ると彼のスーツはところどころ裂けて血が滲んでいた。ロボットでも蜘蛛の妖精でもなさそうだ。多分年齢はまだ若い。二十代前半とかだろうか。
 ウェイドはマスクの下で唇を尖らせた。
「何も良くねえし何がどうなってる?あんたは誰で俺はどうなったんだ?」
「僕はスパイダーマン。親愛なる隣人さ。君はデッドプールでウェイド・ウィルソン。おしゃべりな傭兵」
「そんなwikiに載ってそうなことを聞きたいわけじゃない。あんたの本名は?」
「…………ナイショ」
 ウェイドはむっとして、彼の腕を掴んだ。スーツ越しに伝わる体温。大きなグラスアイに自分のマスクが映りこむ。
 急に、名前を聞くよりも先に抱き締めたくなった。湧き上がる衝動のまま背中に片手を回して引き寄せる。蜘蛛は何も言わなかった。前にもこうした気がする。思い出せない。
 どれだけそうしていたのか、ぐっと胸を押された。有無を言わさぬ腕力で引き剥がされる。
「行かなきゃ……またね。ウェイド」
「あっ、おい……!」
 止める間もなく、ビルから飛び降りた蜘蛛はあっという間に火の手の上がっている方へと消えていく。取り残されたウェイドは座り込んで息を吐いた。
「なんなんだよクソ……」
 俺より事件のが大事なのかよ。めんどくさい恋人みたいな思考だな。


 3日目

 オーケーもう一度だけ説明してやる。
 なんだっけ?
 そうだ、俺はウェイド・ウィルソン。饒舌な傭兵、らしい。わかるぞ。しゃべってないとやってられないんだろう。金髪碧眼のワイルド&セクシーな超絶イケメンのはずなんだがある日目が覚めると毒虫になっていた。俺の人生にはよく悲惨なことが起こる。にしたって酷い。そうは思わないか。
 ウェイドはぶつぶつと、延々と独り言を呟きながらパンケーキを焼いていた。急に焼きたくなったのだ。自分はどうやら料理が得意らしい。誰かに焼いてやっていたような気がする。ウェイドは褒められて伸びるタイプだ。ついでに調子にも乗る。
 これを食べたら今日もあいつを探しに行こう。
 もふもふと食べながらニューヨークの地図を広げ、今日の計画を立てる。あの蜘蛛野郎、絶対に本名を聞き出してやる。相変わらず返信は無い。ネットで目撃情報を確認したところ(便利なもんだな)、ヴィランのグループを追いかけてあちこち飛び回っているらしい。ウェイドは昨晩の彼の様子を思い出した。ヒーロー業はいいが、寝てるんだろうか。飯は食ってるんだろうか。抱き締めた時の腕にぴったりとおさまる感覚がよみがえる。満たされる心。俺が欲しいのはやっぱりあいつだ。こら反応すんな息子よ。
 家で見つけた通帳にはなんかゼロが沢山並んでいた。やたらと贅沢でもしない限り、仕事を受けずともしばらくは生活には困らなそうだ。過去の自分は随分稼いだらしい。蜘蛛探しに集中できる。ありがたい。えらいぞ過去の俺。ありがとう過去の俺。

 ……と、思ったのだが。
 外に出てすぐ過去の自分のせいで蜘蛛探しを中断させられた。いや過去の俺が悪いとは限らないだろ逆恨みかもだし。

「死ね!!デッドプール!!」

 火炎放射器で武装した変態は恨みのこもった声でそう叫んだ。飛び退いて避けながら言う。
「待てよ、誰だおまえ」
「忘れたとはいわせんぞ!!」
「落ち着け。悪いが忘れた」
「忘れただとぉ!?貴様自分の所業を」
 火に油を注いだぞ。仕方ないな。事実だもん。
 蜘蛛のことすら忘れたのに、こんなけったいな奴のことなんて覚えてるはずがないだろ。
「おまえをピンポイントに忘れたわけじゃなくってな~……ま、いいか」
 刀を抜く。
 ウェイドは身を翻して大きく腕を振るい、火炎放射器を両断すると、そいつの鳩尾を容赦なく蹴り飛ばした。倒れた相手をそのまま踏みつける。銃口を額に押し付けて。それから。ああ、この感じ。この感じだ。俺がめっちゃ俺らしい。落ち着く。
「ぐっ……この」
「誰だか知らないがあばよ」
「……この、クズめ!化け物!人を不幸にする疫病神が……!」
 疫病神。
 ただの悪口だというのにズキリと強く胸が痛んだ。そうだ。俺は。狂った化け物で疫病神だ。好きな奴から不幸にする。知ってるさ。指先に力を込める。
 やめろ。
 スパイディに悲しい顔をさせるな。
 過去のウェイド・ウィルソンのメモが脳裏によぎった。あいつと約束しただろ。何を?なんだっけ。
 ウェイドは考えながら銃身でぽかっと男を殴った。

 ひどく気分が悪い。口の中は錆の味がする。頭が重く景色は歪んで、肌全体がぴりぴりと痛んだ。うなだれたまま街を歩く。
 ああ、思い出してしまった。ウェイド・ウィルソンとかいう男はな、クズだ。本物の。関わった人間を片っ端から傷つける。大事な人も。なんでそんなことから思い出すんだよ。忘れていた方が良かった。いや、思い出して良かった。きっとあいつのことも。
 心を虚無感が支配していく。もう会えない。会わない方がいい。これ以上傷つけたくない。だから会わない。蜘蛛探しも3日目にして終わりだ。
 ピロン、と携帯が鳴った気がした。もういいや。関係ない。

 ウェイドはよろよろとビルの屋上に立った。
 ひょいっと身を投げる。
 少しの間の後、衝撃と痛みと共に世界が閉じた。


4日目

 痛い。めっちゃ痛い。死にそうに痛い。
 当然だよ。死んでたもん。
 内臓が破裂して腕がボキボキに折れたみたいに痛い。脳みそが出そう。出てる?
 大分くっついてるし頭も頭の形に戻ってるよ。安心して。
 何も安心できねえよ。死ねもしないくせに自殺だなんて世界一の愚か者だ。馬鹿だ。死ねもしないくせに…………つらい。消えてえ。埋めてくれ。俺はもう駄目だ。
 そんなこと言わないで。駄目でもお馬鹿でもいいから。
 あんた優しいな。惚れそう。ていうか俺は誰としゃべってるんだ?
 ずっと脳内に渦巻いているそれとは違う、聞き慣れている気もする声。ウェイドは声の相手を見たくて、ぼんやりと目蓋を開いた。赤いフィルターを何枚か噛ませたような視界に黒い影が映っている。何度か瞬きを繰り返すと次第にはっきり見えるようになった。
 赤いマスクに黒で縁取られた白いグラスアイ。

「……おはよう、ウェイド」
「おう、おは…………ああ゛?」
 蜘蛛がいる。夢か?都合のいい妄想か?何がどうしたんだっけか。

 ウェイドは目を大きく見開いた。そのままかろうじて動く首で周囲を見回す。転がされ、ウェブであちこちギプスのように固定された身体。膝を折って座り、顔を覗きこんでいる蜘蛛。曇って真っ白い空。蜘蛛の横に置かれている赤いマスク。マスク。マスク、が?
 ウェイドはくっついたばかりの腕を無理矢理動かし、手の平でペタリと自分の顔に触れた。ぼろぼろの醜い肌の感触。
「うわああああああああああスパイディのえっち!!!!!」
「ちょ、いきなり何さ!?」
 ウェイドは水揚げされた魚のように身を大きく跳ねさせた。またどこかぼきっと折れたが気にせず両手で顔を覆う。
「見るな。見るな。見ないでくれ。頼むから」
「……大丈夫だよ。もう見慣れてるし」
「だいじょばなねえよお、うわ~~最悪………」
 死に損ねた上にこの醜い顔を蜘蛛に見られた。見られた。嫌われたら生きていけない。死ねもしないのに。
 しくしくと泣いているとぐいっと物凄い腕力で手を掴まれた。無理矢理剥がされる。
「気にしないってば!……まったく、やっと事件が片付いて君を探してたのに…………泣きたいのはこっちだよ」
「見るなよぉ見たくないだろ?」
「どうしてそう」
「普通にキモいだろ」
「君って毎回話を聞かないの」
「本当に気にしないならキスしてくれよ」
 するはずないと思った。できないだろ?
 蜘蛛は自分のマスクの下半分をめくった。白い肌をしたほっそりした顎があらわれて。躊躇いもなく唇が重なる。
 ピロリン。実績解除。
 蜘蛛と俺はキスをする仲。マジで?そういえば、そうだったような気もする。本当に?これ自体夢なんじゃないか?
「…………失礼だな。夢じゃないよ」
「だとしてもあんた趣味悪すぎだろ。やめとけよ俺なんて。思い出したんだが俺ってばクズでクソ野郎で人を不幸にするのが大得意な疫病神だぞ。近づかない方がいい。俺から近づいてきたら頭をふっとばせ。俺が許す」
「……だとしても、僕の疫病神だよ」
 ウェイドは間近にある蜘蛛の顔をじっと見つめた。怒ってる?悲しんでる?呆れてる?わからない。だが、
「フェアじゃねえ」
 この顔見せたんだから俺だって見てもいいだろ。
 そっと両の手で、既に口元までは露出しているマスクに触れた。蜘蛛は身じろぎしたが抵抗はしない。鼻が見えて、閉じた目蓋が覗いて、ブラウンの髪がこぼれて。神経質そうな、年若い青年の顔が現れる。ヘーゼルの瞳がウェイドの呆けた顔を映し出した。
「……ウェイド」
「めっっっちゃ普通」
「………いつもそう言うよね」
 悪いが覚えてない。彼は肩を竦めて笑った。好きだ。思った瞬間また抱き締めていた。


5日目

 見ようと思えばいつでも見れたが、どうもその気になれなかったフォルダを開く。
 毛布にくるまった寝顔。どこか船の上で撮ったらしい、海鳥と戯れる姿。隠し撮りっぽいスーツからの着替え。悪戯っぽい顔で笑うエプロン姿。並んで自撮りしたらしい写真。なんでもないような、しかし幸せそうな日常の欠片。
 ピーター・パーカー。
 俺はあいつを知らない。どうやって出会ったのかも何故あいつのことが好きなのかも。何も。

 ウェイドは自分の頭を何度かべしべしと叩くと逆立ちした。瞑想するように目を閉じる。
 思い出せ、思い出せ、思い出せ。だがいくら思考を巡らせてみても、大事なものが入っていたはずの箱は空っぽで、ただただ途方に暮れてしまう。なんでだよ、知ってるはずだろこのポンコツが。電化製品じゃないんだからそんなことしたって無駄だろ。じゃあどうすればいいんだよ。どうにもならない。諦めろ。そんなのってないだろ。積み重ねたものがあったはずだ。そしてそれは大事なものだったはずだ。
 そうしてうだうだしている間にピロピロとアラームが鳴った。ウェイドは素早く元の体勢に戻るとシャワーを浴びに行く。全身をスッキリしたハーブの香りのボディソープでくまなく、そう、くまなく洗い、洗濯仕立てのジーンズを穿きパーカーに袖を遠しキャップとフードを深く被り気合いを入れる。一度マスクを手に取り、首を横に振った。醜い顔を隠すと心が落ち着く。しかし、写真の中のウェイド・ウィルソンはマスクを被っていなかった。だからきっとこれでいい。正気かよ。安心しろ、正気なんてとっくに無くしてるだろ。
 
 背を丸め、なんとなく人の少ない道を選んで歩きながら約束の場所に向かう。すれ違う人間は皆ぎょっとした顔をした。気にするな。今はもう、どうでもいい。他のやつらのことなんて。
 たどり着くと彼は既に立っていた。チェック柄のシャツに太めのズボン。頬に絆創膏。こちらに気がつくと手を振って笑う。うん。とてもあの蜘蛛には見えない。ヒーローやってる姿より路地裏で金巻き上げられてる図の方が何倍も想像しやすい。
「…………本当にふつーだな、あんた。普段着だと更に」
「もっとエキセントリックな方がいい?」
「いや。ギャップ萌えがある」
「もえ?」
 ウェイドは肩を竦め、彼の手を掴んで歩き出した。

 今日は天気も良く、デート日和だ。セントラルパークのベンチに並んで腰掛けながら隣の彼の横顔を見る。若そうに見えるが、
「大学生?」
「違うよ。今はシンクタンクの研究員やってるんだ」
「研究員?勤務時間中急に飛び出したりしたらクビにならねえの?」
「ひらめきのために散歩してましたって言えば大丈夫」
 嘘か本当かわからないことを彼は言う。
 ピーター・パーカーは科学者らしい。
 ウェブも含めあの蜘蛛の装備は基本自分で開発しているとか。随分頭がいいようだ。頭がいいのに俺みたいな奴が好きなのか。賢いのに馬鹿だな。馬鹿というより趣味が悪い。悪い男に騙されて人生棒に振るタイプ。
「……今、失礼なこと考えてない?」
「蜘蛛って読心術も使えるのか」
「違うよ。見てたら分かるよ」
「以心伝心ってやつだな」
「まったくもう…………でも、またこうして君と素顔で話せるの、嬉しいな」
 はにかむ顔を、可愛いと思った。
 目の前をジョギングのグループが通りすぎていく。ぐるぐると同じところを何度もまわる。
 本当に記憶が一週間しか持たないのならば、既に何度か繰り返し忘れているのだろうか。それも信じ難いが。
「一週間前の俺は、二週間前の俺はどうしてたんだ?今と似たような感じじゃなかったのか?」
 彼は無言でウェイドの顔を見た。綺麗なヘーゼルの瞳が揺れる。ウェイドはぐっと、鼻先がつきそうなほど顔を近づけた。
「言えよ。俺は何度あんたを忘れた?」
「ウェイド……………ごめん、行かなきゃ」
 立ち上がった彼はそのまま走り出す。ウェイドは慌ててそれを追いかけた。

 当たり前だが阿呆みたいに足が速え!クソ!

 *

 見ての通りだ。見えない?しかたねえな。
 飛び出したあいつを追いかけながら仕方なくマスクを被った俺は、一緒に強盗をとっちめ、信号の故障した交差点で交通整理をやり、大きな荷物を持ったばあさんを家まで送り、警察と大立ち回りを演じだしたアホなヴィランを殴り、他にも色々……まあ、ようするに、ラブラブデートを続行した。

「あれ?デッドプール、元に戻ったの?」
 ガラの悪い男に絡まれていたところを助けてやった女性は礼を言ってから首を傾げた。
「元に?」
「あなた、少し前に刀を振り回してスパイディを追っかけまわしてなかった?」
 ウェイドは横で聞いている蜘蛛をちらりと見た。彼は何も言わず肩を竦める。
 ウェイドは少し考えてから口を開いた。
「あ~……スーペリアじゃないスーペリアデッドプールってやつだ。要するに、別人の偽物だな」
「なあんだやっぱりそうだったの。よかった!」
 本当に別人だったら良かったんだけどな。

 他にも、前見た時は蜘蛛から逃げ回ってたとか、女といちゃついてたとか、ヴィランを殺そうとして蜘蛛と大揉めしてたとか。ろくでもない話ばかり街から聞こえる。蜘蛛とよりを戻したようで良かったとも。本当にいいのか?聞けば聞くほどろくでもないやつだなデッドプールって奴は。
 複雑な気持ちを抱えつつウェイドは蜘蛛の人助けに付き合った。一つ片付いたらまた一つ。目に入ったものをこのヒーローはほっておけない。僕にとっては小さな事件も大きな事件も無いのだと。記憶はさっぱり戻らないが、どうして自分がこんなにも彼のことが好きなのかは分かった。多分前の俺もそうだったんだろう。

 そうこうしている間にすっかり日が暮れ夜になってしまった。高いビルの屋上で並んでホットドッグをかじる。ちなみにウェイドの金で買った。
 色んな意味でへとへとだった。心が満たされるような、ごりごりと削られるような感覚。
「世界の終わりみたいな顔してるけど大丈夫?」
「駄目だ。俺の存在が。人はそれぞれ正義があって争い合うのは仕方ないのかもしれないが俺の嫌いな俺に俺なりの理由があったとしても駄目なもんは駄目だ。ドラゲナイ」
「駄目じゃないよ。今回の君、すごくがんばってる。自殺はしたし相変わらず話を聞かないけど。ドラゲナイって何。」
 食べ終えた蜘蛛はひょいと立ち上がり、ウェイドの前に立った。街の光をキラキラと反射するグラスアイ。彼は本当に自分の何がそんなに好きで付き合ってくれるんのだろうか。マジで謎だ。
 ウェイドは最後のひと欠片を口に放り込み、彼の手を握った。
 歌詞によると終わりの無いような戦いも今夜は休戦の日を灯す、らしい。

6日目

 静かに聞こえてくるシャワーの音で彼の気配を感じながら思う。
 部屋を片付けておけばよかった。
 相変わらず雑多に物が積まれたこの空間は好きな相手を連れ込むには少々汚すぎる。蜘蛛はそれにも慣れた様子だったが。今から片付け始めて、あの世話焼きの蜘蛛が手伝い出して一晩中部屋の掃除に付き合わせて終ることをウェイドは想像した。あり得そうなのが駄目過ぎる。諦めよう。だがだからってこれからどうするんだ?え?あいつが出てきたら俺もシャワー浴びて寝るだけだろ?何時だと思ってるんだよ。寝る?一緒に…………?
 頭がいい具合に煮えてきたころシャワールームのドアが開く気配がした。思わず意味もなく背を向ける。ぎこちない声で言った。
「あ~~…………タオルの場所分かったか?」
「うん。ありがとう」
 頭を拭く音がする。ぺたぺたと足音が近づいてくる。着替えにTシャツと短パンも置いてやったのだがわかっただろうか。
 がしがしと頭を掻きながら煩悩を振り払い、振りむこうとした瞬間腕を掴まれた。素早く足を払われてそのままバランスを崩す。いきなりなんだ。
「おわっ……!?」
 重力に引き寄せられるまま、ごろんと床に仰向けで転がった。したたか腰を打ち付けた勢いで目を閉じる。
「ウェイド」
 静かな声で名前を呼ばれ、ウェイドはゆっくりと瞼を開いた。
 開いたものの、何が起こっているのか分からずただただ硬直する。この体勢は、ええと。

「ピ、ピーター…………?」

 湿った髪と同じくらい濡れた瞳が真上から見下ろしていた。視線を少し下にずらせば一糸まとわぬ美しい裸身が目に入る。
 ウェイドの身体を跨ぐようにして、頭の両側に手をついた青年は全裸だった。

「今回の君は、僕を抱ける?」
 熱を帯びた声。ウェイドはごくりとつばを飲み込んだ。鼓動が早まり、色々なところの血流が良くなる。
「……………その答えはイエスだが。ちょっと、その、待ってくれ心の準備が。それに俺まだシャワーも浴びてないし」
「ごめんだけど待てないよ。だって、たくさん待ったし…………君にはもう、」
 時間がないのに。
 急くように唇が重なる。噛みつくように何度も。触れた彼の粘膜は熱かった。
 ていうかあんたににこうされてできない俺がどっかにいたのか???嘘だろ???混乱したままの頭で思う。混乱しながらも股間は臨戦態勢に入っているのだからどうしようもない。
 ウェイドはピーターの背に手を回し抱きしめた。



 ああ。
 諸事情により、割愛した。
 察してくれ。
 仕方ないだろ。ここはまだ全年齢版だ。こいつのあれとかそれとか見せられない。
 床で動物みたいに盛ってベッドに移動してからまた何度か。あんだけ街で動き回った後なのにほんとタフだな。
 ウェイドは隣ですやすやと眠っている青年の頬を撫でた。夜のことを思い出して身の内がざわざわと騒ぐ。ああ、良かったさ。身体の相性はぴったりだ。ギャップ萌えとは言ったがこんな真面目そうな顔してなんなんだよこいつは。こんな身体なのは君のせいだからって、前の俺は一体こいつと何してたんだ。
「ウェイド…………」
 透明な涙が一筋、閉じた瞼から伝っていく。ウェイドはそれを指先で拭うとぺろりと舐めた。甘い。味覚まで壊れたのかもしれない。
 朝飯にパンケーキでも焼いてやろう。甘いもんは好きなのかな。

 君にはもう時間がないのに。耳の奥でその言葉がこだまする。


7日目

 今までもずっとこうしてきたような気がする。気がするだけかもしれない。覚えていないからわからない。だが、そうだったらいいなとは思う。これまでもこれからも。何すっとぼけてるんだよ。本当はわかってるだろ。今日みたいな明日はこないって。

 今日も一緒に寝て目覚めた。
 一緒に食事を準備して、適当に冗談を言い合って、ピーターが笑う。あんたのためならいつでも何枚でも焼いてやるさと言うと彼は「うん」と嬉しそうにうなずいた。
 仕事に顔を出すと言うのでキスして惜しみながら送り出して、彼が出掛けているその間に散らかりすぎな部屋の掃除を始める。
 しかしすぐに問題が起こった。今のウェイドにはこの部屋にちらばるものの何が必要で何がいらないのか判断できない。ガラクタみたいに見える物でも実は大事な思い出の品なのかもしれないし。この部屋が汚いのはもしかしてそのせいか?いやそれは性格じゃねえかな。小さなデッドプール人形を指先でぷにぷにしながら思う。
 それでも確実にゴミと分かるものを捨て、埃を拭き、トイレと洗面台を掃除し。積まれた雑誌を片付けようとして、その中から明らかに……いやあたり前だが、偽物の蜘蛛コスプレ拘束AVのパッケージを見つけて一瞬固まる。なんてもん隠してるんだよ。見る?見ねえよ。意味もなくきょろきょろして隠しなおした。よし。

 少しはマシになってきたころ、ふと、前の自分が自分宛に残したメモが目に入ってしまった。剥がして棚の上に置いておいたのだ。わざとスルーしていたのに。ウェイドは躊躇いつつ、もう一度それを手に取って読み返した。

 おまえの記憶は一週間しか持たない。

 筆圧高く、自分の字で書かれた内容は当然変わっていない。
 日付を意識すると胸の底にしまっていた恐怖心が次第に黒いもやとなって思考を覆っていく。意識すればするほど足元が崩れていくような感覚に陥る。
 あまりの現実感の無さに、深く考えることもやめていた。だって、こんなの嘘だろ。今現在、この頭は一応正常……正常?に動いている。なのに。これまで得た情報からするに、記憶を何度も失っているのは本当らしい。蜘蛛もそう言っていた。
 ここで一人目覚めてから既に7日経つ。
 いくらこの部屋を掃除して彼と過ごそうと思っても、残念ながら今日のような明日は来ない。今日の続きを過ごすことはできない。
 虚無感に、ウェイドはその場にずるずると座り込んだ。頭が痛い。

 どのくらいそうしていたのか。窓から入る日は気が付けば傾いている。その窓をガタガタと開けて、蜘蛛が戻ってきた。
 出かけた時はピーター・パーカーだったから、また何か事件に首を突っ込んでいたのだろう。
「ただいま。掃除なんて珍しいね」
 蜘蛛はマスクを外し、糸の切れた人形のように座り込んでいるウェイドに気が付くと隣に膝を抱えて座った。今日は車のオイルのようなにおいがする。頬は赤く擦り切れていた。
 ウェイドは彼に尋ねた。
「なあ……本当に消えるのか?忘れちまうのか?」
「ウェイド?」
 この顔を見ていると余計に溢れる感情が止まらなくなる。暗く冷たい恐怖感に足をとられながら口を開いた。
「まだあんたのこと何も知らないのに?聞きたいこともしたいことも山ほどあるのに?また全部?振り出しに戻って?一から始めるのか?ゼロから?無になるのか?」
 次第に激しく、まくし立てるように言うと彼はそれを止めるようにウェイドの手に自分の手を重ねた。視線が正面から絡み合う。
「……忘れるかもしれない。でもゼロになるわけじゃない」
「ゼロだろ」
「違う」
「今こうしてることだって忘れちまうんだろ?気休めはやめろ。本当のことを言えよ」
「言ってる。君は段々変わってるから……振り出しじゃないよ。ずっと見て来たんだ。だから……」
 泣き出しそうにも見えるのに、瞳の奥に宿る揺らがぬ強い意思。ウェイドの愛するヒーローの顔。自分だってろくに泳げやしないくせに、沈んでいく手を掴んで引っ張りあげようとするような。
「……この間も聞いたが、一体何度俺はあんたのことを忘れたんだ」
 ピーターはウェイドの目を見たまま、少し考えてから言った。
「ええっと……まだ百回には行ってないはず」
ウェイドは一度天井を見た。それから正面に向き直り、ピーターの顔を凝視する。彼は困った表情で小首を傾げた。



 80週前の君は僕にまったく無関心だった。氷みたいに冷たくて取りつく島もなかった。
 70週前の君は僕を不審がるばかりだった。僕が異変の原因だと思っているようだった。
 60週前の君は僕を嫌いだと言った。嫌いだと言うくせに、死にかけた僕を助けてくれた。
 50週前の君は僕を見ると苦しくて嫌だからと僕から逃げた。追いかけても追いかけても腕を切ってでも逃げた。
 40週前の君は僕が近くにいても怒らなかったけれど、扱いに困っているようだった。
 30週前の君は僕に執着して、殺そうと追いかけ回した。それだけが生き甲斐だと言った。
 20週前の君はこそこそ隠れて僕をストーカーした。直接会いに行くと近い!と飛び退いた。
 10週前の君は俺に近づかない方がいいと遠ざけた。あんたにろくなことをしないからと。
 5週前の君は、一緒にいたいと僕を捕まえて閉じ込めた。冷たい地下で、抱き締めたのにそれ以上はしなかった。
 先週の君は、とにかく自分を責めていた。僕のことを好きだと言ってくれたけれど罪悪感で不安定で、何度も自殺した。

 拒絶されて遠ざけられて、関係も築けずいる間はくじけることもあったけれど。何度も何度も初めましてを繰り返しながら、それでも少しずつ君は変わっていった。

「……あんたってマゾなの?」
「違うよ」
「見捨てろよ。そんな奴。三週間くらいで諦めろ」
 組み敷いた相手は小さく笑った。両腕が首の後ろにしっかりとまわる。
「本当は見捨ててほしくなんてないくせに」
 ウェイドは大きく息を吐いた。こいつは俺よりも俺のことをよく知ってる。勝ち目なんてない。
 ああそうさ。こんな壊れた男のこと忘れて自由に生きてくれ、なんて、そんな心が広い願いごと本当はできやしない。俺はどうしようもない奴だ。
 見捨てないでくれ。苦しみを一緒に味わって、傷ついて壊れかけても傍にいてくれ。行かないで。一人にしないでくれ。汚れきった本音。
 少しずつ頭が重くなっているのには気がついている。脳の奥が痺れて。現実が歪んでいく。船の底に穴が開いたように侵食されて、思い出が消えていく。
 すがり付くように痩身を抱き返して吐き出すように言った。
「忘れたくない」
「うん」
「あんたが覚えてる全部、思い出して、今のことも……クソ、嫌だ。忘れたくない…………嫌だ……………」
「君が思い出すまで、僕が覚えてるから」
 よしよしと後頭部を撫でられて。強烈な眠気に襲われる。
 愛してると聞こえた。答える前に全身がバラバラになって、深い黒のなかに落ちていく。


1日目

 セーブデータが破損しているようです。
 何も思い出せない。どこだここは。

 見知らぬ部屋でひとり目が覚めたウェイド・ウィルソンはぐるりと周囲を見回し首をかしげた。妙に景色が霞んでいる。いや、違う。
 ウェイドは自分が泣いていることに気がついた。目から雫が流れている。どんな感動的な夢見たんだよ。悲しい夢かもしれない。幸せな夢だった気もする。思い出せない。思い出せない。
 まだ夢の続きを見ているのかもしれないが、肌は嘘のように荒れ爛れていた。脳内も妙に騒がしい。

 あいつに会いに行かないと。

 不意に、そんなことを思った。
 はあ?あいつって誰だよ。


 
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