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 今日もどこか遠くからサイレンの音が響いている。
 素知らぬ顔で人々が交差する大通り。罵声と、笑い声と、クラクションの音と。ざわめき。赤と緑の鮮やかに飾りはまだ片付けられておらず、陽気な歌が混じりあい流れている。
 ニューヨークはそんな相変わらずの喧騒に包まれていた。昼過ぎからはまた雪の予報で、頭上の雲は厚く重い。

 ウェイド・ウィルソンはフードの下に被ったキャップを深くかぶり直し、青く鋭い瞳を憂鬱に細めた。赤いマフラーに首を埋めて白い息を吐く。爛れた肌はうすら赤く染まっていた。

 くそ寒い。

 ひとりで悪態をつく。
 元々ニューヨークの冬は寒いのだが、今年は特に異常気象かと思うほど冷え込んでいた。ウェイドは死ねない身だが、痛みも寒さも感じないわけではない。
 で、この寒空の下、あいつはどうしてるかな。
 ポケットに両手を突っ込み、年末の人の波を縫うように進みながらウェイドは"彼"についてぼんやりと思考を巡らせた。
 来年あたりは一緒にパーティーとか出来るだろうか。あいつが変わらずあいつで、俺が俺でいる限り、あまり期待はできなそうだが。
 去年のこの時期のことを思い出してウェイドは咳き込むように小さく笑った。

**

一年前……

 彼が街から姿を消してその日で3日ほどらしかった。
 らしかったというのはネットからの情報だからだ。ウェイドも仕事で数か月ニューヨークを離れていたので詳細は知らなかった。

 怪我をしているならスーツを脱いだ姿で療養しているのだろうか。病院には行ったのだろうか。寝れば治ると寝ているのかもしれない。もしくは一般人の目につかないところで戦い続けているだけかもしれない。

 ウェイドはタイムズスクエアを歩きながらどうすれば彼に接触できるのかばかり考えていた。普段ならもう少し気軽なのだが。この状況では流石に。
 隣を歩いていたスーツ姿の男がスマートフォンを横にし、上に向かって構えた。その方向にある巨大な電光掲示板ではニュースキャスターが早口に原稿を読み上げている。


 連続殺人の容疑で指名手配中のスパイダーマンの所在は未だ掴めず、警察は……


 シャッター音。
 少しずれて、別の方からも聞こえた。新聞もネットニュースも同じような内容をショッキングな見出しでとりあげている。
 絶賛指名手配中のスパイダーマンは3日前から消息不明。
 SNSでは様々な憶測が毎秒飛び交い、ファンとアンチが殴りあっていた。そういう状況もよくあることで、別に初めてのことではなかった。

 ウェイドは自分の携帯端末を手に取った。液晶画面を見ても返信は無し。最後のやり取りは一週間ほど前だった。現実ではおしゃべりな蜘蛛だが返事はいつも一行で、それすらよく誤字っている。
 ウェイドは反応は期待せずにまたメッセージを送った。それからそのまま親指で目当てのベーグル屋の場所を検索し、大股で歩く。
 
 プレーンにメープルナッツにセサミにココアホワイトチョコに。
 4つほど入った袋をぶら下げながら地下鉄に乗り、ガタゴトと揺られてとある駅で降りた。

 以前二人で乗りながら、あんたでも地下鉄使うことがあるんだなとぼやくと素顔の青年は『こっちの方が速いこともあるんだ』と眉を下げて笑った。街中をスイングした結果別の厄介ごとに巻き込まれて延々目的地に着かない、とか。そりゃ大変だな。
 彼は優先順位の設定が常人とは違う。

 入り組んだ通りを進み、古びたアパートの階段をのぼる。ドアをノックしてみたが反応は無かった。引っ越したとは聞いていないから、ここに住んではいるのだろう。そのくらいは連絡してくれるはず。多分。忘れられていたら泣いてしまう。単に今は出かけているだけかもしれない。
 ウェイドは自分だと分かるメモをつけてドアノブにベーグルの袋を引っ掛け、アパートを後にした。

 翌日訪れてみると、袋は無くなっていた。
 代わりに〔Thank you〕と彼の字で書かれた紙が吊り下げられており、小さくハートマークまで描かれていた。ノックしてみても反応はなく、居留守をつかっているか、もう出かけたようだった。
 ウェイドはメモを取り、丁寧に畳んでポケットにしまった。



 スパイダーマンなんて元々胡散臭いし
 何かあっておかしくなったのかも
 元々おかしいだろあんなの
 どうせまた冤罪だろ?
 狂人だよ
 こわいね。あのパワーで殴られたらひとたまりもないよ
 さっさと捕まえろよ
 警察なんかじゃ束になったってかなわないよ。スパイディだもん
 早く捕まりますように



 翌日、スパイダーマン死亡のニュースが朝からメディアを賑わせていた。

 正確には死亡か?だが。誰も死体を見たわけじゃない。これも"よくある"ニュースなので信じている人間はそう多くないだろうが。
 ウェイドは卵を焼き、トーストを食べてコーヒーを飲み家を出た。仕事だ。

 連続殺人で指名手配はされていないが、ウェイドは必要とあらば人を殺す。そうして生きてきたしこれからもおそらくそうだろう。

 高層ビルの上で机を盾に銃撃を避けながら刀を抜く。身を低くして間合いに入り込み、武装した敵を一撃で仕留める。向けられた銃を引っ付かんで別の敵に向ける。首をへし折りぶん投げる。
 静かになったフロアでウェイドはテレビのリモコンを拾った。チャンネルを回すと割れた画面にニュースが映る。まだスパイダーマンは死んでいるらしい。
 ウェイドはリモコンをぽいと捨てて、次のフロアに向かった。

 確固たる信念だとか、自分が何者かだとか。手に入ればいいと思うが未だによくわからない。それは流体のようで幻影のようで見つけた先から消えてしまう。しでかしたことの責任を取ろうとすれば大抵ろくなことにならない。記憶も幻覚も曖昧で解く気にもならないほどぐしゃぐしゃに絡んでいる。
 確かなのは……

 扉を蹴り破るとオフィススーツ姿の男女が頭を抱えて床に伏せ、武装した男がそれを脅していた。
「来るな!来たらこいつを」
「俺ちゃんが人質とか気にするタイプに見えるか?」
 大袈裟に狂った態度で言うと、男は悪態をついて人質ではなくウェイドに銃を向けた。そう。それでいい。ウェイドは銃弾を正面から受けながら撃ち返した。男が永遠に沈黙する。少し離れたところにいるもう一人には腰から抜いたナイフを投げた。命中。
 あいてててと弾を指で引っこ抜きながらナイフを回収に行くと、デスクの裏に隠れていた少年と目が合った。少年はスパイダーマンのぬいぐるみを抱えている。
「おう、スパイディのファンか。仲間だな」
「おじさんもヒーローなの……?」
 ウェイドはナイフの血を拭いながら曖昧に笑った。



 夜、隠れ家に戻ると誰かがいる気配がした。
 物置部屋の窓が数十センチ開いたままになっており、冷たい風が雪ごと吹き込んでいる。ウェイドはそれを閉めてから、窓下からリビングまで続く血痕と足跡をたどった。
 暗闇でストーブがぼんやりと赤く光っている。その近くに、あちこち破れたスーツがウェブで洗濯もののようにぶら下げられていた。
 手袋。ブーツ。上。下。マスク。
 ストーブに近づくように動かされたソファから素足が覗いている。ひじ掛けの上には使いかけの包帯がそのまま置かれていた。
 ウェイドは自分のマスクを取り去り、ぼりぼりと頭を掻いてからソファを覗き込んだ。
 横向きに寝転んだ素肌が浮かび上がるように照らされている。
 ……素っ裸の彼を見て、ウェイドは眉間に皺を寄せると神妙な顔で毛布を取りに行った。ばさっと上にかけてやると「ん~~……」と寝ぼけた声がしてもごもごと中で手足が動く。
 少しして、もぞ、と乱れたブラウンの髪が出てきた。半開きの瞳がウェイドを映す。

「おはよ、…ウェイド」
「よう、久しぶりだなピート」
「ごめん、借りてる」
「いいさ」

 色々言いたいことはあるがとりあえず生きているのを確認できたので差し引きプラスでいいことにした。
「大丈夫か?あんた今連続殺人で指名手配中で今現在死んでるらしいが」
「う~ん……たぶん平気だけど、ちょっと眠い……」
 ずっと寝てなくてさ、とスパイダーマンの中身、ことピーター・パーカーは毛布の中で大きく伸びをして、また猫のように丸まった。連絡もなく突然自分の家ではなく人の家に転がり込んできて暖を取っているのは中々に自由だが、ウェイドは悪い気はしなかった。この青年もそれを承知でこういうことをしているに違いない。多分。
 ピーターは眠そうにウェイドを見上げたまま首を傾げる。
「もう少しここにいてもいい……?」
「そうだな……キスしてくれたら」
 すると裸の腕が持ち上がり、ちょいちょいと指先が動いた。誘われるまま近づくと両腕で身体を絡めとられ、後頭部を掴まれ唇に唇が押し付けられる。
 体温が上がる。長いキスの後、銀の糸が引いた。
 続けようとすると無情に胸板を押された。これ以上は無しの合図。ウェイドは顔を離し、ピーターの顔の両側に手を置いたまま尋ねた。
「もう少しって、3日くらいいるか?一週間でもいいぞ」
「寝て起きたら出て行くよ。……あと少しで方をつけるから」
 ふやけた声に、ふと鋭く硬質なものが混じる。ヘーゼルの瞳に一瞬捕食者の光が揺れた気がした。スパイダーマンはまだ仕事の途中。
 ウェイドは短く息を吐いた。
「勝手にしろ」
 どうせウェイドが何を言おうと何を思おうとこの青年のやることは変わらないだろう。知っている。ウェイドだけでなく、街中に非難されようと誤解されようと。相対している敵がどんな奴だろうと彼には関係ないのだ。
 俺とは違う。

 指先でブラウンの髪を弄ぶように撫でる。耳の後ろあたりにまだ治癒していない傷を見つけた。深さを確認しながら口を開く。
「あんたってさ、」
「ん?」
「殺してやりたいと思う時ってないのか?」
「……」
「もうこいつら見捨ててやろう、とかは?」
 "いない方がいい人間"はどうした方がいいと思ってる?死んだ方が幸せだという人間は。
 唐突な質問にピーターは逡巡した後、口を開いた。
「……あるよ」
 怒りも憎しみも打算も殺意も。人間だもん。
 ピーターの指先がウェイドの胸の下をとんとんと辿るように叩く。その気になれば今の動きで肋骨を全て折れただろうな、とウェイドは思った。
「でもやらない」
「大いなる責任がどうとかってやつ?」
「そう。僕が"僕"であるうちは、決めてるから」
 知っている。
 常に指の一関節まで制御し、意思で縛り、力を振るう。手の届く範囲の誰も死なせないように。誓いであり自分の意思で定めたルール。時に理想と矛盾し時に破綻を招きそのせいで血を吐こうと。
「あんたが頑張ったって世の中変わらないぜ」
 ださくてくだらないことをわざとウェイドは言った。
 悪意は際限無いし、人々はおまえを理解しない、認めもしない。
 彼の答えはこうだ。
「変えようなんて思ってないよ」
 そんな壮大なこと。
 ウェイドはため息をついてずるずるとソファの下の床に座り込んだ。

 境界のあちら側とこちら側。俺は踏み越えても彼は踏み越えない境。二つの丸い円のぎりぎり重なり合うあたりでやっと二人で立てる。

「なあ、あんたが"あんた"をやめることがあったらさ、その時は一緒に盛大なパーティー開こうぜ。全部放ってさ。それで、ついでに結婚しよ」
 くす、とピーターが笑う気配がした。
「望んでるの?」
「さあな」
 そんなことはあるのか無いのか。
 なんだかおかしくて悲しくってウェイドも低く笑った。


**

現在

 電光掲示板を見上げると、スパイダーマンがいた。ウェブでぐるぐる巻きになったライノの上でひらひらと手を振る姿が映っている。
 周囲の人間がそうしているように、ウェイドもそれを写真に撮った。とりあえずピーター・パーカーに送信してみる。
 鼻歌混じりに歩いていると近くで悲鳴があがった。逃げる男の後ろ姿。
 ウェイドは舌打ち一つして、それを追いかけた。

 

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