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夢か現実かは認識している。
そんなこと目の前に"彼"がいる時点で明らかだ。自分達は同じ肉体を共有しているのだから。
マーク・スペクターは身を寄せ合うように眠っていたスティーヴンの耳元で「起きろ」と囁いた。ついでに軽く耳たぶを噛んでやると彼は気の抜けた声をあげて目覚める。
「んん……マーク……?」
「服を着ろ。スティーヴン。行きたいところがある」
マークはスティーヴンがゆっくりと上半身を起こすまでの間に二人分の足枷を外し、ベッドの端の方に丸まっていたシャツを羽織った。スティーヴンは寝癖頭を搔いて眠そうにまばたきする。
「夢の中なのに眠いって、ほんと不思議なかんじ…」
「眠いと思うから眠いんだよ」
「そういうものかなあ」
「これを着ろ」
「うん……」
マークはスティーヴンがボタンをかけるのを手伝い、砂を踏んでベッドから立ち上がった。部屋の鏡には誰の姿も映らない。二匹の金魚は水槽から出ていろんな所をふわふわと泳ぎ回っている。
テープを剥がして玄関のドアを開くと、いつもの通りではなく夜の砂漠が青く青く広がっていた。
その上には四角く無機質な建物が浮かんでいる。スティーヴンはそれを見て声をあげた。
「え、うわあ、なにあれ? 空に遺跡?」
「行ってみればわかるさ」
マークはスティーヴンの手を引き、砂漠に踏み出した。涼しい風が吹いて白い砂をさらさらと波打たせる。宙に浮く構造物は丸い月に煌々と照らされ、巨大な幻獣のようにも見えた。スティーヴンはもう完全に目が覚めたようで興味津々という顔でそれを見上げている。
マークは目を閉じてゆっくりと開いた。瞳に三日月が宿り、満月へと変わる。白い包帯が全身を包んでマントが風になびいた。
「マーク? その格好は」
「見ての通りだ。飛ぶぞ」
「あ、う、うん」
満月の夜に飛翔するのは造作もないことだ。
マークはスティーヴンを後ろからぎゅっと抱きしめ、砂を蹴った。白いマントが大きく広がり、月面にいるかのように軽く高く二人の身体が浮きあがる。そのまま宙に浮かぶ構造物の門の中にふわりと音もなく着地した。
「着いたぞスティーヴン。スティーヴン?」
見るとスティーヴンはマントに後ろから包まれたまま僅かに耳を赤らめている。
「…こうやって飛ぶのってなんだかドキドキする」
「俺はおまえを落としたりしないぞ?」
「そうじゃなくて……ほんと朴念仁だよな君って」
レイラの言うとおりだ、とスティーヴンはため息をつき、マークの腕から抜け出した。マークには何のことだかわからない。なんとなく落ち着かない気分にはなった。
マーク達が降り立ったのはコの字型の建物の丁度真ん中のあたりだ。下からはよくわからないが、古く堅牢な石造りの建物は神殿のようにも要塞のようにも見える。入口のあたりにはこれだけはそこだけ妙に現代的な立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされていた。
マークは元の格好に戻るとテープを躊躇いなく破いた。スティーヴンに「こっちだ」と手招きする。
「いいの? 入っちゃっても」
「ああ。気にするな」
誰も止めやしない。神も不在だ。現実世界で忙しい。
白い柱の間を抜け、奥へ進むと開けた空間と共に巨大な壁が出現する。否。壁ではない。
スティーヴンが感嘆の声をあげる。
「すごい……これ、全部本?」
空間を囲む巨大な本棚。あの神の蔵書。何千年もの知識の地層。マークは背表紙を見るだけで目眩がしそうになるが、スティーヴンは違う。目を輝かせてそれを見つめる。
「好きなのを読め」
「え、読めるかな……」
「読めるさ。おまえなら」
ここに入ることが出来る時点で受け入れられている。スティーヴンは目を輝かせて本棚を物色し始めた。マークは固い床に座り込んでそんなスティーヴンを眺めることにする。
「わ、ほんとだ! すごい、すらすら読める」
はしゃぐ声。
歴史が好き。詩が好き。謎解きが好き。物語が好き。彼女が好きだったものが好きで、弟が好きだったものが好きであり、子供のマークが好きだったものが好き。……スティーヴン・グラントとはそういう存在だ。マークが失ったものを持っている。そして彼が自分であることが、マークにとっての救いだった。
「マーク、これ見て」
スティーヴンが本を何冊か持ってきて積み上げ、そのうちの一冊をマークに楽しげに見せた。中を開き読み上げる。マークはただそれを音楽のように聞く。
本を読むのが苦手だ。
昔は違ったのだが。集中できない。得た知識を整理したり、噛み砕いたり、組み直したりしている暇も自分にはない。純粋な驚きも、感動もなく。なにも残らない。砂漠の砂に水を撒くように。
心に動揺を起こすのはスティーヴンのことと、リアルの、人を殺めた記憶だけ。思い出すだけでひりつくように脈拍が加速し、首後ろに鳥肌が立って、呼吸が途切れ口の中が乾く。そんな記憶。
いつ瓦解するかわからない幸福めいた平凡さに身を浸していても、安心と諦めの地平の向こうにそれは不意に顔を出す。だが、その方がマシだと思う。何も感じなくなるよりは。
鈍化していく。
年月とともに、歳を重ねるごとに、確実に鈍くなっていく。都合の悪いことをおそろしい速度で忘れていく。
傷ついたのと同じ場所で一日を過ごして、明日になれば少しぼやけて。それを繰り返し、繰り返して、いつかはすべてがどうでもよくなる。痛みも罪悪感も薄まる。スーツに包まれている時のように、白く、傷の痕跡すら残らず。なにもないページになる。
それは、平和で、ひどく恐ろしいことだ。何故? きっと、死にかけのくせに生きることを諦められなかったように、まだ諦めたくないからだ。
マークはスティーヴンに身を寄せ、抱き締めた。
「マーク?」
「聴いてるよ」
「ほんとに?」
「ああ。続けてくれよ」
「この体勢で?」
スティーヴンは困ったように笑って、マークの頭をくしゃくしゃと撫でた。
スティーヴン・グラントが自分であるうちは、まだきっと自分は自分を諦めていない。