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 ウェイドは暗い峠を越してきた。
 頬を過ぎる風は冷たいのに、とりまく空気はどこか生ぬるかった。
 蛍光ピンクやオレンジの枯葉がヒラヒラと舞っては闇のように黒いアスファルトに落ち、カサカサと音を立てた。どこかからシャワーを出しぱなっしにしているような音がしているけれども、その方角も距離もわからなかった。噛んでいるフルーツフレーバーのガムはとっくに味がなくなっていたが、ただ惰性で口の中に入れていた。

 薄雲った道の遥かとおくにはビルがまとまって森のように生えているのが見えた。
 どの窓もチカチカサイケデリックに光っているのでその塊の周囲だけぼうっと空まで明るくなっている。そうかと思うとそんなに遠くないあたりにも橙色の街灯がぽつぽつと間をおいて落ちていた。蛍のようなそれは、しかしそのどれも時折弱まったりぶれたりしてまったく頼りない。
 ウェイドは空気のせいかじくじく疼く肌を鬱陶しく感じながら目の前の道をただ歩いていった。

 ウェイドの傍にはひとりの道連れが歩いている。
 若い男だ。背はウェイドよりも頭ひとつぶん低く、髪はブラウン。年齢は十代後半にも、二十代半ばにも見えた。ウェイドはこの青年と、いつからこうして一緒に歩いているのかよくわからない。そもそも誰なのかも知らない。知っているような気もしたけれど、どこで見たのかは記憶を探ってもわからなかった。
 青年はウェイドの半歩後ろをずっとついてくる。振り向いて顔を見ると神経質そうな眉をハの字に下げて、ちょっと困ったように微笑んでみせた。

 二人とも何も言わずに、連れ添って歩いた。風の音と、カラフルな枯れ葉を踏む音と、相変わらずどこかでシャワーが出しっぱなしになっている音だけが聞こえる。
 歩きながら、ウェイドは道連れの青年のことを考えた。峠を越す時はひとりだったような気がするのだが。こいつはどこからやってきたのだろう。
 しばらく歩いていると、目の前に大きな亀裂があらわれた。アスファルトが地震でもあったのか真っ二つに割れて2、3メートルほど隙間があいている。蛍のような街灯に照らされたそれを見下ろすと断裂の下は真っ暗で、どれだけ深いのかも見えない。試しに小石を落としてみるとカンカンとぶつかりながら闇に飲み込まれていった。
 ここに身を躍らせてみたい。
 亀裂を見ているとそんな欲がふつと胸の奥に湧いたのだが、視線に気がついて首をまわすと、咎めるようなヘーゼルの目が思ったよりも間近にあってウェイドはぎょっとした。
 飛び込まないよと首を振ると、青年はじいっと目をすがめてからふいっと顔をそむける。彼はウェイドがそれ以上なにか言う前に助走すらせず華麗に跳躍し、軽々と亀裂を飛び越えてトンと向こう岸に降りてしまった。

「ウェイド」

 彼が呼んだ。はじめて声を聞いた。角がなくて優しい、どこかで聞いた気がする声だった。
 ウェイドはもう一度闇を覗きこみ、そこにガムをぺっと吐き出すと、数歩だけ下がって、走り、踏み切った。跳びきれずに落ちてしまう妄想をちらとして背筋がひやりとしたが、右足で着地したあと腕をぐいと引っ張られて青年の身体ごと地面に倒れた。押し倒すかたちになった青年を見下ろしながら、ウェイドはまた死に損ねたなと思った。

 また暫く同じように歩いていると、次第に夜は明けたようだったが、代わりにあたりに霧が立ち込め出した。
 うっすら空気が曇り出したのが、段々と濃くなって、数メートル先も見えなくなってしまう。ここではぐれると面倒な気がしたので、ウェイドは道連れの青年の手を掴んだ。「わ、」と小さく声を漏らすのが聞こえた。彼の手はウェイドよりも温かく感じた。
 どうして俺はこいつとはぐれると面倒だと思ったのだろう。ウェイドは思う。誰かも知らない奴なのに。どこに向かうのかもわからず、見知らぬ青年と二人で手を繋いで歩いているこの状況は奇妙だった。ウェイドの人生には奇妙なことがよく起こる。

 濃い霧の向こうはあちらこちらぼんやりと光って、それが右に左に音もなくゆっくりと移動している。薄明かりのその気配は不穏に感じたが、それ以上近づいてくることはなかった。
「ウェイド」
 青年が呼んだ。
 なんだと聞くと、青年は口を閉じてしまう。甘えるような声だと思ったが、ウェイドがそう感じるだけかもしれなかった。
 また、ただ黙々とウェイドは歩いた。シャワーの音が少しだけ近くなった気がした。
 靴の底で踏む感触はいつの間にかアスファルトよりも柔らかになっており、枯れ草を踏むようにパキパキと音を立てた。人の歩く道を外れたかもしれないとウェイドは思った。なんにしても霧が晴れないことには何もわからない。
「ウェイド」
「なんだよ」
 青年がついっと右を指差す。そっちに行けということかと、ウェイドは方向を転換した。
 霧はさらに濃くなって、もはや一足先の道も見えない。手を繋いでいる青年の顔すら見えないのだ。ウェイドはそれが急におそろしくなって、無い毛の立つ様な気がした。腕を引っ張り、見える距離まで引き付けて、彼の頭を掴む。
「大丈夫だよ。大袈裟だな」
 青年は緊張感のない声で言った。ウェイドはなんとなく合点の行かぬ気持がした。

 そのうちに霧は薄くなり、少しずつ視界が戻ったころにはウェイドも連れの青年も、全身しっとりと濡れていた。足元はアスファルトに戻っている。見えるようになったのだからもう手を離してもよかったが、なんとなくそのまま繋ぎ続けていた。
 淡い淡い太陽光に照らされた道の両端の景色は田舎の農園のようで、そこから小さな光の粒がいくつも飛んでいる。峠から見た光景はこんな風だっただろうかとウェイドは訝しんだ。しかし前方にはうっすらだが、サイケデリックなビル郡の影が見えている。
 シャワーの音に混じって電球のチカチカするような音がどこからか聞こえた。
「懐かしいね」
 青年が言った。
「あん?」
「前にもこういうことがあった」
 知らないと、言いかけてのどがつかえた。
 そう答えるのは彼を傷つけるような気がしたのだ。なのでウェイドは「そうだっけか」と曖昧に返した。
 ウェイドは自分はこの青年を傷つけたくないのだなとどこか他人事のように思った。しかし彼と自分がどのような関係なのかは、丸っきり見当もつかなかった。
 ドアのバタリとしまる音が、ドアなど無い方から聞こえた気がした。
「覚えていないんだろう?」
 少しの間をおいて彼が言った。すこし悲しげに笑って。
 ウェイドは何ともいえない罪悪感に襲われた。
 虫が鈴のように鳴くのがあちらこちらから聞こえている。大人が両腕を広げたほどもある鳥が近くの中空を旋回し、遠くビルの方へあっという間に飛んでいった。その影を見ながらウェイドは口を開いた。
「おまえは俺の何だ?」
「僕?僕は君の疫病神」
「ちがう……それは俺だろ」
「覚えてもいないくせになんでわかるのさ」
「わかるもんはわかるんだよ」
「なんにもわかっていないくせに」
 拗ねた子供のような声で青年は言った。
 相変わらず歩みは一定の早さで進んでいる。このまま行けば、昼のうちに街までつけるだろうか。
 空を覆う雲が黒くなってきた。遠くから雷鳴も聞こえる。身を隠す場所も無いのに嫌だなとウェイドは思った。自分はいいが、こいつに何かあったら困る。風も出てきた。濃厚な雨のにおいがただよいはじめる。
 暫く歩くと、青年がまた「ねえ、ウェイド」と呼んだ。先ほどまでと声の調子が変わって、どこか湿っているように聞こえた。

「今度はなんだよ」
「全部許すから、愛してるって言って」
 
 何言ってんだと思ったが、青年が今にも泣きそうに見えたのでウェイドはうろたえた。
「泣くなよ」
「言って。それだけ聞ければいいから」
 なんだか自分も、こんなことが前にもあったような気がしてきた。
「僕はそれだけのためにここまで来たんだよ」
 物好きにもほどがないか。
 しかし彼の様子を見ているとどうにも胸が詰まって、悲しくなってきた。俺はこいつを愛しているんだろうか。わからなかった。でも泣かせるくらいなら言おうと思った。
 ポタリと大粒の雨が青年の頬に落ちる。それを繋いでいるのとは逆の手の親指でぬぐって、ウェイドは口を開いた。
 愛してる、と言おうとした。
 しかし喉の奥が急に絞められたように苦しくなって、声が出てこない。青年は悶え苦しむウェイドを見ながらしばらく待っていたが、やがて諦めたように肩を落とした。悲しく言う。
「やっぱり僕には言ってくれないんだね」
 ちがう。ちがう。ちがう。そうじゃない。
「わかってるよ」
 ウェイドは思わず青年に取りすがろうとした。
 そこで手を離したのがいけなかったのだろうか。今までずっと並んで歩いていた彼が、急にいなくなってしまった。
 同時に、自分の身体が鉛のようになってしまって、最早一足も動かれなくなった。
 ウェイドは青年の名前を今ごろ思い出して必死に呼んだ。
 しかし大きくなったシャワーの音と降りだした雨音にかき消されて、まったく聞こえやしなかった。

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