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【埋葬】

 赤いヒレをなびかせ泳いでいた金魚が水面に浮かんで死んでいるのを見て、マーク・スペクターは世界の終わりだと思った。

 手足の温度が下がり、酸素が薄くなる。汗が滲み頭の奥が重く痺れる。こんな風に今までの人生で何度も何度も世界の終わりを感じているのに、残念ながらこの世界は終わったためしがなかった。

 世界は終わらない。続く。だから、どうにかしなければならない。俺がどうにかしないと。

 マークは亡霊のようにゆらりと動き出す。
 あいつに愛されていた赤い魚を水槽からすくい上げて、あいつにその死がバレないようにしなければならない。代わりを用意しないと……。はやく。あいつが目覚める前に買ってきて、入れ換える。最低の発想だと思った。でもやらないと。失敗を隠そうとする子供みたいだ。いつもそう。あの絵葉書だって。仕方がないだろ。だって知ったら、あいつが傷つく。あいつが傷つくのは見たくない。守らないといけない。今まで誰かを守れたためしなどないのに。またそうやって。

 そうやって嘘をつく。嘘を隠すために更に嘘をついて、その嘘を隠すためにまた、嘘をつく。その度に罪悪感に心がすり減って、深い泥の沼にはまりこんでいく。わかっている。しかしマークは他のやり方を知らなかった。
 砂の城だ。
 壊れないようにどんなに守ろうとしても、城は少しずつ形を失い崩れてしまう。
 毎晩部屋に戻った後足かせを付け直すのも。絵葉書を自宅に送るのも。目覚めないあいつの代わりにショップの店員をつとめるのも。新しい金魚を買ってきて水槽に入れるのも。あいつの生活を守るため。しかしこんなこと、いつまでもは続かない。問題を先延ばししているだけだ。とっくに怪しまれている。いつかはバレる。それでも続けないといけない。壊れるまで。決定的に破綻してしまうまで。続けて。そして。どうするんだ?

 両ヒレがある金魚がゆらゆらと泳ぎ出すのをマークはぼんやりと見ていた。スティーヴンは、気がつくだろうと思った。片ヒレの金魚はもういないと。
 あいつの好きだった片ヒレの金魚。遠い遠い記憶。
 マークは両手で顔を覆ってその場に座り込んだ。頭が割れるように痛んだ。

『マーク・スペクター』

 低い声が直接脳に響く。背後に気配。マークは荒く息を吐き出して異形の神に向き直った。唇から情けない声が漏れる。
「コンス……待ってくれ。少し」
『こんな無駄なことをして何になる?』
「待ってくれ。大丈夫だから」
『寄生虫の生活を守ったところで虚しいだけだ』
「あいつには手を出すな。出さないでくれ。スティーヴンには、関係ないんだ」
『本当に愚かだな。マーク』
「約束してくれ。スティーヴンには、」
『ならばおまえもあいつにこれ以上邪魔をさせるな』
「わかってる。俺がどうにかする」
 俺がすべてどうにかするから。
 あいつだけは。
 マークは立ち上がった。
 金魚を埋葬しないといけない。どこか静かなところに。誰にも見つからないように。この罪悪感と一緒に。
 そうできたらいいのにと思った。




【邂逅】

 暗く深い水底から酸素を求めて浮き上がるように目覚めた。

 つらい夢を見ていた気がする。血なまぐさい夢を見ていた気がする。
 気がつくとマークは小雨の中、道の真ん中に立っていて、
 気がつくとスティーヴン・グラントがいなかった。

 胸に手を当て、呼びかけ、鏡を見て、360度モノクロの景色を見回した。いない。気配が感じられない。どこにも。
 マークは呆然と数十秒か数分立ち尽くした後、どうしようもない不安にさいなまれはじめた。胸に穴が空いたような欠落の感覚。
 マークは迷子の子供のように繰り返しスティーヴンを呼びながら、そのままふらふらと街をさまよいはじめた。
 雨で霞む街はどこかで見覚えがあった。そうだ。はじめて、制裁の拳として人を殺した街だった。色の無い世界で血に濡れた自分の手だけが赤く見える。眉を寄せ首を振った。少しずつ状況を認識する。落ち着け。……これは、現実じゃない。この壁に貼られている、見覚えある顔しかない沢山の行方不明者のポスターも。人殺しという落書きも。現実のものではない。
 ふと、視界の隅で何かが動いた気がした。
 見ると赤い金魚がゆらゆらと優雅に空中を泳いでいく。金魚には片ヒレがなかった。
 マークはその金魚を視線で追い、それから後を追って歩き出した。他に行く宛がなかった。
 白い壁に行方不明者ではなく指名手配のポスターが貼られている。マーク・スペクター。殺人、詐欺の容疑。表情もなくその横を通り過ぎると、どこからか銃声が聞こえた。
 金魚が宙に溶けるように消える。マークは銃声のした方へと走った。

 路地を曲がると黒い人影が見えた。

「スティーヴン…………?」

 強くなってきた雨音の向こうから、黒いハンチング帽をかぶった男が両腕でスティーヴンを抱えて歩いてくる。
 マークはその男を知っていた。一瞬足が竦む。声がつまる。マークはその男を恐れていた。しかし今はそれどころではない。
 数メートルの距離になったところで向き合い、睨み付け、低くうなるように言う。
「……スティーヴンを返せ」
 ハンチング帽の男は困ったように軽く笑って肩を竦めた。
「返せ? 俺が取ったわけじゃないぜ。マーク。せっかく助けてやったのに感謝の言葉もなしか? やっと3人揃ったことだし、そんな目で見るなよ」
 男は雨でも尚消えない赤い血で汚れ、スティーヴンはその腕の中でぐったりと動かない。顔色は青ざめて見えた。
「スティーヴンに何をした」
「人聞きが悪いな。言った通りだ。俺が助けて連れてきた。スティーヴンがこうなったのはどっちかというと俺じゃなくおまえのせいだぞ」
 俺の?
 思った瞬間、屋根の上から獣のような黒い影が男とスティーヴンに向け飛びかかってきた。
「スティーヴン!!」
「なんだまだいたのか」
 男は動じた素振りも見せず、一度後ろに跳躍して避けると膝を折ってスティーヴンの下半身を地面におろし、ポケットから取り出した銃で手際よく3発撃った。この世ならざる声をあげて血まみれになった獣が倒れる。
 マークはその死体と男を交互に見た。
「こいつらは……?」
 男は銃をくるりと回してポケットに戻すと大事なものを扱うようにスティーヴンの頬を撫でた。
「夢に入り込む怪物だ。弱った心の隙間から侵入して無防備な魂を食い荒らす。勝手に来たわけじゃない。差し向けた奴がいる。なにせ俺たちは人気者だからな」
 死体は墨のように黒くなり、さらさらと風に崩れていく。男は陽気に言った。
「でもこいつらもびっくりしただろうな。まさかターゲットが"3人"もいるなんてさ」
ハンチング帽の下の目がマークを見る。その目は洞窟のように黒く、昏かった。
「スティーヴンは目覚めないおまえを守るために、こいつらを引き付けて遠ざけて戦った。それを俺がみつけたわけだ。マーク」
 嘘をついているようにも見えない。マークは何も言えなくなって唇を噛んだ。
 弱った心の隙間から夢に入り込む魔物。目覚めない自分と、それを守って倒れるスティーヴン。そしてスティーヴンを助けたのがこの……。
 どこからかまた赤い金魚が現れてふわふわとマークの横を通りすぎ、スティーヴンの方へと泳いでいった。
「……片ヒレの金魚、か」
 男がぽつりと呟く。
 金魚がスティーヴンの胸のあたりで消えると、ほぼ同時にスティーヴンの睫が震えた。
「ん……マーク……?」
「マークはあっちだ。スティーヴン」
「ジェイク?」
 スティーヴンはぱちぱちと目を瞬かせて男を見上げ、それから立ち尽くしているマークを見た。マークは動けなかった。
「マーク……無事で良かった。どうかしたの?」
「傷心なんだ。ほっといてやりな」
「マークをいじめちゃだめだよジェイク」
「俺はいじめたことなんてない」
 やがてスティーヴンはよろよろと立ち上がり、崩れるようにマークをぎゅっと抱き締めた。スティーヴンの身体は冷たかった。




【つながり】

 夢と夜明けの狭間で触れ合う。身体を重ねる。どこからが現実なのかわからない。もう、あまりその境を気にしてはいなかった。彼は僕で、僕は彼で。お互いを抱き締めて慰める。キスをして探りあって言葉を交わして。繋がりを感じる。刺激と幸福感。自慰と言うべきものなのだろうか。わからない。わからなくても、きっとそのままでいい。
 スティーヴンが肌の触れ合う快感にぼんやりとしていると、真上にいるマークが低い声で言った。
「おまえにきちんと謝れてなかった」
「んん……なんのこと?」
 また眉間にいつものしわが寄っている。睫が伏せられる。唇が開いて、躊躇いがちにマークは言う。
「金魚……ガスのことだ」
「ああ……」
 水槽で優雅に泳いでいた片ヒレの友達。死んでしまったのだろうと思ってはいた。
「ずっと気にしてたの……?」
「悪いことをした。おまえにも、ガスにも」
 マークの性格だ。焦っただろうし、自分を責めただろう。ガスがいなくなった日の部屋の様子を思い出す。
 スティーヴンはマークの顔を引き寄せてしわの寄ったままの眉間にキスをした。
「マーク。そんな顔しないで」
 マークはしばらくそのままの体勢でじっとしていたが、やがて大きく息を吐いて再び動き出した。スティーヴンの上半身のあらゆる敏感な箇所に濡れた愛撫を施していく。耳を舐めて首筋に甘く歯を立て、二の腕の内側に鼻を擦り付ける。スティーヴンは小さく声を漏らし身を震わせた。
 マークの手が胸と脇腹に触れ、ゆっくりと撫でる。くすぐったい。
「んん……」
「もう痛みはないか?」
「平気だよ。元々、本当の肉体じゃなくて夢の中なんだし……」
 魂に、精神にダメージを与える魔物だったらしいが、既に噛まれた箇所はなんともなかった。むしろ心配なのはマークの方だ。マークを庇ってスティーヴンが怪我をしたことが彼を傷つけてしまったらしい。
「今回のことも気にしないで」
「無理を言うな」
「だろうけど」
マークはそういう人間なのだ。そういう性格だ。彼の手が下腹部を滑り下に降りてきてスティーヴンはびくりと震えた。
「あっ……ぁ……、マーク」
 内腿を焦らすように撫でられ、指先が陰毛を梳かして性器に触れる。股間をまさぐられ熱が集まる。
「あの時」
「は……ん……、ぁ……」
「あの街で目覚めるまで、ガスを埋めた時の記憶の中にいた」
 魔物は弱った心の隙間から夢に入り込む。俺の心は隙間ばかりだ。
 スティーヴンは両手でマークの頭を撫でた。
「それはまあ、だから君はコンスみたいなのにつけこまれたんだろうけど……、ぁ……あ……」
 マークと自分の性器がマークの手の中で触れ合う。気持ちいい。喘ぎながらスティーヴンはどうにか続けた。
「僕も、君も、"彼"も……至らないところばかりで……でも、僕らは一人じゃないから…………、一緒になんとかしようよ」
 ね?
 微笑んで言うと噛みつくように唇を奪われた。舌が絡む。敏感な部分が触れ合って。混ざり合い、繋がって、与え合う。
 もう少し。朝が来るまでは。


 

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