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 ずっと気になっていることなのだが、自分たちのユーザー一覧には見たことのない名前がある。
 その名前自体も文字化けして一部しか読めない。
 マークに聞いてもはぐらかされてしまう。マークがこうしてはぐらかすことというのは、大抵が本当はなるべく早めに知っておいた方がいいことだ。彼のこういう性格は接するうちにスティーヴンにも段々わかってきた。彼には秘密が多い。自分自身に対してすら。
 それを責めるつもりもないのだが。



 スティーヴンがマーク・スペクターの存在を知ったのは数ヶ月前のことだ。
 それまでは自分のアカウント内のことしか知らなかった。そこで起きることが世界の全てだった。
 大きな事件や不幸を経験したことはない。凪のような生活。しかしずっとどこか閉塞感と息苦しさを感じていた。どこへも行けない。誰と繋がりを持とうとしても上手くいかない。孤独。寂しさ。ぐるぐると同じ迷路の中を迷うように、同じ日々の繰り返し。それが変わったのは、マークの世界と繋がってからだ。

 それはスティーヴンにとっては世界の構造そのものが根本から変わる出来事だった。
 電源が落ちている間、別の誰かが自分のハードを使っているなど思いもしないだろう。いや、本当はどこかで違和感を覚えていた。パスワードを短期間に何度も変え、別の認証方法を併用していたのはそのためだった。しかしそれも結局は意味のないことだった。
 マーク・スペクターはスティーヴン・グラントのアカウントの作成者であり、管理者という立場だったのだから。

 彼はスティーヴンのアカウントで起こることは窓からずっと見てきたという。何をしているのかも、誰と話しているのかも。彼には全て見えていた。

 自分の世界が、人生が、マークの望む虚構であり、かつそれを一方的に監視されていたことを知るのはショックなどという言葉では言い表せない出来事だった。そんなフィクションに触れたことはあったが。自分の人生に起こるなんて。
 信じてきたものが足元から割れて粉々になるような。簡単には受け入れられないし、当然反発した。
 マークも本当なら知らせたくなかったという。しかしそうもいかない事情ができて、彼はスティーヴンの前に姿を現した。

 マーク・スペクターという男の世界には沢山の壊れたファイル、開けないファイルがあり、その上悪質なウイルスや、正体のわからないものにも感染している。読めない文字。意味のわからない数字の羅列。触れることすら危険だというフォルダ。一見整頓されているようで無秩序で矛盾していて穴だらけで傷だらけで荒れている。スティーヴンの見てきた景色とは何から何まで違う。

 スティーヴンのアカウントが作られたのはそんなマークがまだ幼いころのことで、以来心の拠り所だったと彼は語った。
 そしてスティーヴンに謝った。すまない。こんなつもりじゃなかった。おまえを傷つけたくはなかったと。
 
 マークを知るうちに彼への反発心は弱まり、ずっと苛まれていた正体不明の不安や閉塞感も消えていった。心の欠落が埋まり、疑問が解消され、天秤がつり合うようにスティーヴンの精神は安定した。

 それに、スティーヴンはマーク・スペクターのことが好きになっていた。
 彼は隠し事だらけで、時に横柄で、時に繊細で難しいが、優しい。悪い人間ではない。彼を嫌えない。もっと知りたいし、一緒にいたいと思う。

 それはおまえがそういう風にできているからだとマークは言う。俺がおまえを俺のために作ったからそう感じるんだ。そうプログラムされてるんだと。
 そうかもしれないと思うし、それだけではないといいとスティーヴンは思う。

 


 メッセージが来る。
 マークから。
 マークが感染している何かから。
 その他にもう一通。
 
 マークからのメッセージは日の決まった時間に3通来る。直接沢山話した日でも必ず来る。彼はスティーヴンと違い几帳面な性格だ。内容は業務連絡のように短く、淡々としている。そこに僅かに滲む彼の感情を好ましく思う。

 二通目。マークが感染している何かというのはエジプトの月の神、コンスを名乗る。ただのウイルスの類とも違うようで、自我を持ち、マークやスティーヴンに語りかけてくる。マークがいない時に姿を見たこともある。全身を包帯で巻かれ、鳥の骨を頭部とする異形。彼は高圧的で、話したがりで、スティーヴンを寄生虫呼ばわりする。寄生虫はそっちだろう。怪しく胡散臭く、あまり良くないものなのはわかる。マークには関係を断つことを勧めているが、歯切れの悪い回答しか返ってこない。

 もう一通は読むことができない。
 タイトルは文字化けしていて、開こうとしても権限がないと表示される。自分宛のメッセージなのに権限がないというのは不思議だ。
 だが、なんとなく、あの三人目のユーザーからではないだろうかとスティーヴンは思っている。触れるとほんのりとその気配を感じる。彼はいる。近くに存在する。

「いるの?」
 呼びかけても反応は無い。

 赤い片ヒレの金魚が視界を泳いでいく。金魚は限られた区画の中を泳いでいたのだが、マークを知ってからは色んなエリアを自由に泳ぎ回るようになった。金魚はスティーヴンの横をすり抜けて、細かな情報の粒子に分解され、どこか別の空間へと消えていった。



 そんな日々がしばらく続いてから、3人目の彼と接触することに成功した。

 電源が切れている間は完全な無になるのだと思っていた。ブラックアウトし、何も見えるものはない。何も聞こえない。次の目覚めまでそのまま。
 しかし、その一面の黒の中に段々と濃淡と凹凸が見え、奥行きを感じるようになる。無だと思っていた闇が空間に変わる。それは日に日に変化していった。

 スティーヴンは目を閉じているのかも開いているのかもわからないままその空間に手を伸ばした。
 透明な壁に触れた瞬間、指先から全身にノイズが走る。痛みに似た感覚にびくりと身を震わせ、気がつくと暗い空間に立っていた。
 真っ暗ではない。見上げると丸い月が照らしている。空気は冷たく、湿っているように感じた。どこだろうここは。知らないエリアに迷い込んでしまったのだろうか。電源を切った後の世界?
 時折ぶれる黒い街の輪郭。落書き。ノイズ。それらの間を水中を歩くように歩いていくとどこからか物音が聞こえた。何かを何度も何度も殴りつけるような。
 音のする方へ歩いていくと、暗闇の向こうに白いマントがくっきりと浮かび上がっている。その人物は白いフードを被り、白い包帯でぐるぐるに巻かれていた。足元には人の手のようなものや顔の一部のようなものや足のようなものが散乱している。呆然とそれを見て、声をかけようとした瞬間後ろから口を塞がれ物陰に引っ張りこまれた。
 驚いて目を見開き、首をひねる。黒いハンチング帽を被った男が黒い手袋をした人差し指を立てて唇にあてていた。男はマークやスティーヴンと同じ顔をしているように見えた。3人目だと直感的に分かった。

 男に手を引かれ、影の街を歩く。男は慣れた様子で迷いなく進み、スティーヴンにはただの黒い壁にしか見えないものを押して中に入った。
 詰まれた段ボールやコンテナ。散らばったままの工具にバイク。車椅子。ホワイトボード。薄暗いし白黒だが外よりははっきり見える。
「ここは?」
「安全地帯だ」
 初めて男の声を聴いた。やはり自分達と同じ声をしていた。
 安全地帯。スティーヴンは首をかしげた。
「え~と、つまり外は危険地帯ってこと?」
「よくわかったな。えらいぞ」
 男は褒めているのか馬鹿にしているのかわからない調子で言う。彼はマークともスティーヴンとも異なる性格をしているようだ。
「なんで君はここに?」
「それはな、こっちの台詞なんだ。箱入りのおまえがなんでこんなとこにいるんだ? スティーヴン・グラント」
 男はモノクロのソファに腰かけて足を組む。それが妙に様になって見えた。光の加減か片目が血のように赤い。ここに色なんてないのだが。
「いつもみたいにシャットダウンして、黒を見つめてたらいつの間にか……。僕にも何がなんだか。……ああ、そうだ。君の名前は?」
「******」
 男が名前を口にしたが、その部分だけが何故かただの音としか認識できず情報として頭に入ってこない。気持ち悪く妙な感覚だ。スティーヴンは耳を押さえて頭を振った。
「ええと……ごめん、なんでか聞こえないや」
 男は片眉をあげて、ちょいちょいとスティーヴンに手招きをした。隣に座れというらしい。スティーヴンはとりあえずそれに従った。黒い手袋をした手が伸びてきて耳の上あたりの髪をかきあげられる。するとパチッと弾けるような痛みが走って思わず後ろに引いた。勝手に接続されそうになった。男は悪びれた様子もなく「悪い」と言う。
「おまえの頭の中、マークがロックをかけてるな。知ってたが」
「マークが…。え、じゃあ君からのメッセージが読めないのもそのせい?」
「俺からっていうのは分かってたんだな」
「なんとなく。どんなメッセージを僕に?」
「おまえが読めない前提で送ってたから教えない」
「ええ……」
 男はスティーヴンの髪に触れながら人の悪そうな笑みを浮かべる。なんとなく気が付いてはいたが、この男は少々いじわるだ。
 スティーヴンは気を取り直して尋ねた。
「さっきの白いコスチュームの人はなんなの?」
「マークだ」
「マーク……?」
 理解できずに首が90度近く傾く。
「あいつには秘密が多いんだよ。おまえとか、俺とか」
「秘密が多いのは知ってるけど……。あんなマント姿は流石に想像の範囲外というか。僕がここにいることもマークは知ってるのかな」
「知らない。ここでのことはあいつには見えない。見えてたら飛んでくるだろうよ。当然おまえのログにも残らない」
 そんなことがあるのだろうか。男が嘘をついているようにも見えなかった。自分にマークから確認できない領域が? そうであったらいいとは思っていたけれど。
 名前の分からない男はまたスティーヴンの唇に指をあてた。

「だからここでのことは俺とおまえだけの秘密だ。スティーヴン・グラント」

 俺たちはとっくにあいつの認識の範囲を超えて、俺達として思考し動いてる。
 あいつがそう望んでいるから。

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