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 いつも通りの光景にあくびをひとつ。

 忙しい基地内にはそれを咎めるような人間もいない。特にこの男のような人間に対しては。
 よく鍛えられた厚みある長身。それを覆うカーキ色の軍服。短く切り揃えられたブロンドと端正な顔立ち。ただその青い瞳はどこかどんよりとにごっており、表情に軍人らしい覇気だとかそういったものはなかった。

 薬品と火薬と手元のトレイから立ち上るコンソメスープのにおい。騒がしいベルと行き交う慌ただしげな足音と。
 男は大股でそれらの中心をまっすぐ突っ切ると、基地の奥の白い扉に手の平をぺたりとつけた。青緑色の光が走り、ロックが解除される。冷たい空気を吸いながら地下へと繋がる階段を降り、白い廊下を進む。相変わらず静かだ。地上の喧騒が嘘のように。子供の頃嫌いで仕方なかった病院と同じにおいがする。息を吐きながら片手で首筋に触れると、つい数時間前に鉛弾が貫通したはずの箇所は既に跡形もなく塞がっていた。

 ウェイド・ウィルソンという男は、登録上、一応軍人ということになっている。
 お上の掲げているらしい大義も正義も知ったことじゃないが、それで特段困っちゃいない。いつ死ぬか分からない代わりに衣食住の心配はせずに済む。給料はいい。人殺しは慣れる。死ぬのも慣れる。要するに男は連れてこられたころに思ったよりはずっと……ここでの暮らしに適応していた。腫物に触るような扱いを受けてはいるが、それもある意味では好都合。求められていることはシンプルなのだからそれをこなしてやればいい。
 だが今任されているこの仕事は、どうにも苦手だった。乾いたパンにスープという質素な食事を見下ろしながらこれから向かう先にいる青年の顔を思い浮かべる。
 ……そいつに初めて会ったのはもう一週間ほど前の話だ。頭に布袋を被せられ、両手を機械式の枷で縛められた状態で連れてこられた彼は最初から他の捕虜とは明らかに異質な扱いを受けていた。理由は伝えられていない。尋ねることもしなかった。袋から現れた顔はどう見てもギリギリ成人しているかどうかといったところの青年で、頬には派手に殴られた痕があった。白い肌と大人しげな顔立ち。弱りきったヘーゼルの眼差し。ウェイドは一目で自分には向いていないタイプの人種だと悟った。どこの誰かはしらんが関わってもお互いロクなことにならないと本能が告げている。
 しかしわざわざ引き合わされたのには当然意味があり……その日からなぜか、ウェイドは彼の世話をすることになってしまったのである。世話というか、生存確認というか。死なないように管理しろ。逃亡したら撃ち殺せとしか指示されていない。自分がまかされたということはそれだけの危険があり、かつ他の誰もやりたがらないのだろうとウェイドは思う。しかし……しかし、今のところとてもそんな奴とは思えない。
 また扉に手をかざす。厳重なロックのその向こう。そいつは差し入れてやったくそつまらなそうな本を読んでいた。ウェイドが来たことに気が付くと嬉しそうに表情を綻ばせる。だから、そういう顔をするな。
「S-3、飯だ。さっさと食え」
 無機質な管理番号で呼ぶ。彼の名前をウェイドは知らない。教えられていないし、彼は首に嵌められた機械によってかは知らないが声を奪われていた。無駄に情が湧かないように、その方がいいのかもしれないが。
 ここで預かるのは3週間程だと聞いている。研究所の改装が終わったらそちらに移されるのだという。それからこいつがどんな目に遭うのかは知らない。ウェイド自身がそうであったように、倫理だとか人道だとかそういう言葉は切り刻んでトイレに流したような場所だ。
 銃口を突き付けられたままなことなど意にも介さず、彼はもそもそと美味そうに不味そうなパンをかじる。この一週間で分かったがこいつは見た目より大分図太い。図太いのか、自分のようにネジが外れてしまっているのかは判断がつかないが。一枚布の服から覗くスラリとした脚。薄い身体。ここに来た時は全身痣だらけだったが随分綺麗になった。じっと観察していると、彼もそんな自分を見ていることに気が付いてウェイドは眉間にしわを寄せた。
「なんだよ。さっさと食えよ」
 見るな。笑うな。
 眉を下げて笑う青年にウェイドは大きく息を吐く。まったく調子が狂うったらない。彼はウェイドを恐がるような素振りは見せない。それどころか……自分がどういう立場なのか分かってるのだろうか?彼はウェイドの心中などおかまいなしにゆっくりとスープを飲み干した。ごちそうさまの形に口が開閉する。
 片付けようとすると、青年の手が縋るようにウェイドの腕を掴んだ。しばし視線が絡み合う。
 ……この一週間で、こいつについて知ったことがもう一つ。
 ぐっと、顎下に銃口を擦り付ける。彼は相変わらず何を考えているのかわからない顔で目を細めると、怯みもせず顔を近づけてきた。ちゅっと柔らかな唇が触れ合って離れる。それだけだ。昨日も一昨日も、ウェイドが大して拒まないのをいいことに繰り返されるごく数秒の行為。
 やっぱりネジが外れてるのかもしれない。僅かに赤く染まった頬を見ながらウェイドは思う。それともこいつは誰にでもこういうことをするんだろうか。人は顔によらないというし。
 気まぐれだったのかなんなのか。ウェイドは青年の後頭部を掴むとぐっと引き寄せた。斜めから食いつくように唇を塞ぐ。
 軽く閉じていた唇を割って舌をもぐりこませ、彼のそれと絡ませた。唾液が混ざりあってぽたりと彼の顎を伝ってこぼれる。

「…………はっ、するならちゃんとしろよ」

 口端を吊り上げると、耳まで真っ赤に染めたまま彼は呆けた表情でウェイドを見つめていた。
 ほらな、やっぱり。だからお互いロクなことになりゃしない。俺の予感は当たるんだ。



 その日も死んだ。

 男にとっては良くあることだ。爆風が顔の半分と肩を景気よく吹き飛ばす。残った方の手で構えた銃で、自分を殺した奴を殺した。これもまた、よくあることだ。意識が霞む。今日のあいつの食事は誰が代わりに出すんだろうか。なんて、どうでもいいはずのことが脳裏を過って、そのまま照明が落ちるように目の前が暗くなった。
 荷物よろしく回収され運ばれ、再生するまで放置される。
 痛ぇ。
 ウェイドは呻いた。慣れるとはいっても骨が砕けるのも肉が飛び散るのも気持ちいいものではない。悶え呻きながら簡単に検査をされて、小学校のような質問に答える。はいはい、俺の名前はウェイド・ウィルソン。いちたすいちはにですよ。

 解放されてふらふら基地内を歩いていると、スパイダーマンが死んだらしいという会話が再生したばかりの鼓膜を震わせた。特段大きな声で話していたわけではないが、他の雑音の中その言葉だけ色がついたように正確に届く。

 スパイダーマンが、死んだ。

 ウェイドはつかつかとその話をしていた男に近寄ると、襟首を掴み上げて問いただした。おい、どういうことだ?適当なこと言ってんじゃねえぞ。
 落ち着け、彼を離せと背中に銃を押し付けられたが気にするはずがない。相手はウェイドの剣幕に怯えながら震え声で事情を語る。聞きながら耳鳴りが強くなって、後半は聞き取れなかった。

 ああ、世の中本当にクソなことばっかりだ。
 当然のことだが、敵対組織の飼っている蜘蛛のバケモノのことなど死んで喜ぶ者は山ほどいても悲しむなど狂人のすることだ。だから狂人のすることとして処理された。その通りかもしれないが、あの蜘蛛に対する感情はそうじゃない。誰にもわかりゃしない。

 クソなことというのはどういうわけか重なるもので、ウェイドが頭痛と耳鳴りに耐えながら2日ぶりにS-3の元を訪れると彼は死んだように床に転がっていた。

 一瞬、本当に死んでいるのかとヒヤリとした。しかし触れてみれば脈はあるし呼吸もしている。ただようやく傷の薄まってきた肌にはまたあちこち変色していた。殴られたような、吸い付かれたような。
 栗色の睫毛が震えて、瞳にウェイドの顔が映る。彼は安心したように表情を緩めた。口の端が切れて血が滲んでいる。腹の底でゆらりと炎が立ち上ぼり黒煙が充満していくような感覚にウェイドはむせこんだ。何をされたのかはわからない。そもそも、こいつを死なない程度に世話すればそれでいいと言われている仕事だ。だが怒りなのか他の何かなのか、また頭がぐちゃぐちゃになる。 やめろ、やめろ、やめろ。自覚させるな。
 獣のように荒く呼吸しながら彼の顔の横に手をつくと、枷を嵌めたままの痩せた腕がおずおずと伸びてきてウェイドの背に回った。淡い色の唇が言葉を紡ぐ。耳鳴りの中、音のないはずのそれがはっきりと聞こえる。とっくにわかりきっているその言葉。

「                    」

 元々不安定だった頭の奥でぷつりと何かが切れた気がした。
 耳鳴りが止み、絡まっていた思考が弾けて、即物的で暴力的な何かに変わる。
 ウェイドはそのまま無抵抗の痩身を組敷くと痣を上書きするように首筋に歯を立て噛みついた。びくりと補食される動物のように彼の身体がひきつる。消毒液と何か甘い匂いが鼻腔を掠めた。
「っ、」
「……おまえ、俺がいない間に輪姦されたのか?」
 責めるような低い声が出る。歯形を舐めながら問うと彼はふるふると首を横に振った。
「じゃあこの痕はなんだよ。おまえが誘った?俺にしたみたいにさ。得意なんだろ?」
 ちがう、と薄い唇が戦慄く。ウェイドはふうん?と青い目を眇め、彼の太腿を掴むとその手をゆっくりと上へとスライドさせていった。
「……っ……、」
 滑らかな肌の感触。触れた箇所から彼の震えが伝わってくる。しかし相変わらず、抵抗する素振りはない。ワンピース型の服の裾を臍のあたりまで捲りあげる。それだけで下肢のすべてがあらわになった。髪と同色の薄い下生え。ほとんど包皮に覆われた性器。恥じるように擦り付けられる両脚。ウェイドは彼が下に何も身に付けていないことにまた眉間の皺を深めた。しかもひ弱そうなくせに妙にいい身体しやがって。
「脚、開けよ。確かめてやる」
 ベルトを外しジッパーを下げながら、半ば脅すように言う。青年は恥じ入るように睫毛を伏せると言われるままに脚を開いた。その従順さにおまえ本当に誰にでもこうするんじゃないかと問いただしたくなる。例えそうだったとして、なんだっていうんだ。俺に何の関係がある。答えが出ないまま彼の片脚を腹につくくらい身を折り曲げさせる。随分と柔軟だ。ウェイドは喉を鳴らし自身の指に唾液を絡めると、彼の後孔に触れた。そのまま無遠慮に人差し指と中指を突き入れる。
「っ……!」
 彼の手がぎゅっとウェイドの服を掴んだ。声の出ない唇が震えている。狭い。熱い肉壁は吸い付いてくるようで、こんな場所に性器が挿入るのかと頭の片隅で思う。ヤられてないっていうのはマジなのか?ぐいぐいと拡張するように節くれだった指を動かしていると襟元を引っ張られ、ウェイドは首を傾げた。なんだよと問いかければ彼の唇が小さく動く。

 やさしくして

「はあ?無茶言うなっての。なんで、おまえに……」
 名前も知らないし声も知らない。どこの誰かもわからない、すぐいなくなる予定のおまえに。
 ウェイドは舌打ちした。
 ああ、そうだ。一番クソなのは俺自身だよ。知ってるさ。
 ウェイドは指を引き抜くと、下着の中でとっくに形を変えていた性器を取り出した。血管を浮かび上がらせ熱く脈打つそれを先ほどまで弄っていた箇所に擦り付ける。
 まって、と言われた気がしたが、気にせず先端を押し付けると力まかせに狭穴をこじ開けていった。内部がぎちりと軋み、青年の白いおとがいが反り返る。括約筋の強い締め付けに端正な顔を歪めながらウェイドは奥へ奥へと腰を進めた。最初はきつかったそれはすぐに快感へと変わっていく。ぐっと根元まで挿入すると青年の背がびくりとバネのように弾けた。悲鳴の形に口が開閉している。
「~~~っ、!」
「……意外といけるもんだな……ほら、もうここまで入ってる」
 下腹部を押してやると男根を埋め込まれた淫肉がきゅう、と締まった。紅潮した白い肌。快楽と羞恥に歪む表情。
 ウェイドは片足を肩にかけると衝動のままに腰を前後に揺らし始めた。湿った水音と共に肉を打つ音が響く。痙攣したように震えるのを押さえつけて奥をぐりぐりと刺激した。その度に細い腰が艶めかしくくねり、弾力ある太腿が引き攣る。
「~っ、……っ!」
 溺れる身体を繋ぎとめるように彼の腕が再びウェイドの背にまわった。より深い結合を自ら求めるように彼の腰が揺れる。
 これでやさしくしろだとか、なんなんだこいつ。
 熱い息を吐きながらウェイドは角度を変え何度も青年の身体を貫いた。
 声が聞きたい。本当はどんな声で鳴いているのか聞きたかった。ウェイドは反応のいい箇所に股間をぶつけるように律動し、そのまま射精した。
 割れた腹に触れると精液でどろりと濡れている。彼もいつの間にか達したらしい。
 すき、と唇が動く。
「……なあ、おまえほんとイかれてるな」
 俺の言えたことじゃないが。


「スパイダーマンに会ったことあるか」
 ぐったりと固いベッドに横たわる青年は眠っているのか起きているのかわからない。気にもせずウェイドは続けた。
「俺はな、あいつのことが好きだった」
 その言葉にぱちりと、ヘーゼルの目が開かれウェイドの広い背中を見つめる。
「こんな体になる前の話だ。俺もゴーグルしてたし、あっちは覚えてないだろうが。ある街での戦いの時にあいつに遭遇して簀巻きにされたことがある。その日からずっと好きなんだ。あいつはすげえよ。本物のヒーローっていうのはあいつみたいなのを言うんだってその時知った。敵だとか味方だとかそういうくだらない次元の話じゃねえ。しかもまたすげえいい尻してやがってさあ、」
 声にどこか夢見るような恍惚とした色が滲んだ。青年の動揺した表情にも気が付かず、ウェイドは喋り続ける。
「まあそんなだから俺とはまるで縁のない存在なんだが。死んだとか聞かされたが俺は信じてねえ。俺みたいなのが死ねねえのにあいつが死ぬとかねえだろ。ふざけんな」
 振り向いたウェイドと、青年の視線がかち合った。見開かれた瞳がウェイドの顔を映し出す。
「なんだ、起きてたのか……何そんな驚いた顔してんだよ。」
「…………」
 青年は無言で首を振ると、赤くランプの灯る首輪をそっとなぞって目を閉じた。





 おそらく監視カメラがあるはずなのに、翌日もその次の日も、呼び出し等なないし誰にも何も言われることはなかった。それを言うならキスの時点でどうかと思うが。世話係に虐待されるくらい別にかまわないってか。あいつの扱いは雑なのか厳重なのかまるでよくわからない。本当に何者なんだよ。
 ウェイドは騒がしい脳内を整理しながら金色の髪をかきあげた。
 ……そういえばあと一週間ないぞ。あいつがいなくなるまで。
 正確には何日だ。日付の感覚すら最近曖昧だ。その日が来たら自分はどうするか。ぼんやりと考える。このまま見送るのか。連れ出すのか。連れ出せるのか。その先どうするんだ?俺は撃たれても死ねないが、あいつは多分いとも簡単に死ぬぞ。
 ウェイドは彼の血で濡れた死に顔を想像して、首を振った。
 それともいっそ、殺してやった方がいいのだろうか。自分の受けた扱いを思い出すとそんな気すらしてくる。どうせ生きても地獄だ。死ぬなら俺がやれば一瞬だ。苦しめたりしない。
 基地内を歩いていると、人気のない廊下で見覚えのない女に声をかけられた。

「ウェイド・ウィルソン。ちょっといいかしら」

 きっちりとまとめられたブラウンの髪に眼鏡。スレンダーな身体を軍服に包んでいる。地味な装いをしていても分かる。美女だ。これで見覚えがないんだから本当に初対面なのだろうとウェイドは思う。
「ん~?なんだ、デートのお誘いか?」
「どちらかというと、あなたがしているデートについてのお話ね」
 ウェイドはむっと目を細めた。ついに来たか?女は微笑んだような表情を変えぬままウェイドに歩み寄り、至近距離で囁いた。
「S-3を助けるのに協力してくれない?」



「ほらよ、差し入れだ」

 数冊の本に混ぜて、女から渡された本のようなものを彼に渡す。重量も見た目もただの分厚い参考書だ。どういう細工をしているのかはわからないが、検査にも引っかからなかった。彼はいつも通りそれを受け取り、一瞬だけ表情を変えた。ウェイドの顔とそれをじっと見比べる。何を考えているのかは分からない。
「いらないなら持って帰るぞ」
 彼は首をゆっくりと横に振ると、口の動きでありがとうと言った。それからウェイドに手招きし、目を閉じる。
 これもあの女に見られてるんだろうかなどと思いつつ、ウェイドは唇を合わせた。まあ今更だ。
 服の上から手を這わせながら彼女とのやりとりを思い出す。
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「カメラの映像は改竄してあげたわ。あなたがいない間に彼に手を出そうとした奴らだって死角を探してたのに、あなたって頭おかしいの?」
「おかしいのは認めるがあいつも一緒だろ」
「それはそうだけど」
 女はあっさりと認めて肩を竦めた。ウェイドが不在だった間のことも知っているということは、未遂だったのもこの女が何か手を回したのかもしれない。その上で俺のことは止めなかったのか。どういう判断だ。ていうかもしかして全部見たのか。
「そのあたまのおかしい男にものを頼むあんたもどうなんだ?俺は金が欲しくてここにいるんだ。あんたがスパイだって売り渡すかもしれないぜ?」
「あなたはしないわ」
「どうしてそう思う?」
「そんなの自分の胸に聞いてみて」
俺の胸に聞いてもロクな答えが返ってきた覚えがないんだが。無責任なことを言うなよ。ウェイドはぼりぼりと頭を掻いた。俺はついさっきまであいつを撃ち殺そうと真剣に考えてたんだが。なにせスパイディのようにはなれねえ。
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「……そういやおまえに教えたっけか」
「?」
「俺の名前」
 彼は首を横に振った。そういえばそうだった。
 最初は必要ないと思っていたし、あまりに今更過ぎて名乗ったことがなかった。俺はこいつの名前を知らないが、こいつも知らない。呼ばれることもないし完全に忘れていた。今後も必要な場面があるのかはわからないが。
「ウェイド・ウィルソンだ」
 ウェイド。
 噛みしめるように何度か唇が動く。その様子を見ながら、やっぱり殺すのも嫌だななどと当然のことを思った。



 それから2日後の夜。
 青年はあの地下の牢獄から、ウェイドの前からあっさり姿を消した。
 前日まで何の兆候も無かったし、警報すら鳴らなかった。システムの何にも感知されることなく、青年は基地からいなくなった。ウェイドが何故夜にいなくなったと知っているかというと、彼がわざわざ会いに来たからだ。

「ウェイド」

 冷たい雨の降る夜だった。
 雨粒が窓を叩く中、聞き覚えのない若い男の声でウェイドは夢から引きずり起こされた。聞き覚えがない?いや、以前どこかで聞いたような気もする。どこだったか。思い出せない。記憶の棚に手を突っ込みながら額を押さえて、声のした方を見上げる。
 天井に一匹の巨大な蜘蛛がいた。
 蜘蛛としては馬鹿でかいが、人間としてはまあ平均サイズだ。夜の闇に同化するかのような真っ黒いスーツと血のように赤い目。ウェイドは首を傾げた。
「スパイダーマン……?」
 最近たまによくあるリアル過ぎる幻覚だろうか。それともまだ夢を見ているのか。ついに完全に頭がおかしくなったか?ウェイドの寝惚けたような反応に、蜘蛛が苦笑する気配があった。彼はするすると糸を伝って天井から逆さまに降りてくると、頭のマスクを目の上までたくしあげた。その顔にウェイドの確信が強まる。
 ……やっぱり夢に違いねえ……。
 最近脳を支配してる色々がついに混ざったか。勘弁しろよ。
 窓の外から小さな声が聞こえた。ウェイドの耳にはなんと言っているのかまでは感知できない。蜘蛛が囁く。

「ごめんジェシカ、すぐ行く…………、ウェイド……、ピーター、だ。ピーター・パーカー。僕の名前……また会いたいよ」

 ああ、キスの仕方まであいつにそっくりだ。ウェイドは目を閉じながら思った。

 そうして人の部屋に勝手に入って、勝手に彼は窓から出て行った。それが最後だった。
 スパイダーマンが生きていたという悲報が基地内をざわつかせたのはそれからまた一週間ほど経ってからのことだ。


 
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