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第五話 傷と記憶
スパイダーマンが好きだ。大ファンだ。
あのぴったりした赤と青のスーツはクールだし、俊敏でしなやかな身のこなしもそれを活かした戦い方も、不殺の信条も、優しくて甘ちゃんなところも。自分とはまるで正反対で見ているとたまらない気持ちになる。
それ以外の、それ以上の何かだって?
そんなの、
*
赤い。真っ赤だ。深紅に染まった視界。高音の耳鳴り。血の池に沈んだように息もできなければ赤以外何も見えない。死ぬことには慣れているが。そうか。死んでいるのか。納得。よくあることだ。
やがて赤色の中に少しずつ、炙るように景色が描き出され、いつの間にか存在していた手が誰かの身体を強く押し倒す。赤はこの色かと、ウェイド・ウィルソンは思った。
大きなグラスアイ。赤いタイツで覆われたしなやかな肉体。よく知る蜘蛛の巣模様。鼻上まであげたマスクとほっそりした顎。白い頤(おとがい)が反り返り、薄い唇が何か訴えた。ぜんぜん聞こえない。下のタイツを引きずり下ろして、身体を密着させ、膨張した自分の欲を擦り付ける。彼の身体が厭うように捩られる。嫌なら俺を殺せばいい。〝あんた〟なら簡単だろ。また、唇が何か訴えた。やっぱり聞こえない。この耳鳴りのせいだ。ふと、脳の奥に疑問が浮かぶ。いや、待てよ。どうして。どうして……?何故こんな?わからない。しかし肉体は昂って、止めようもない。感情と衝動の齟齬。無理矢理に腰を打ち付け、頭を掴んで、唇を。
なあ、あんたは、
「ウェイド」
刹那、急速に世界が回って落ちた。
ぐるぐると何回転か天と地が入れ替わって喉の奥が絞まる。痛覚。嗅覚。触覚。聴覚。そして視覚。ばらばらに砕けたそれがぎりぎり一つの肉体に戻って、今この時を認識し出す。網膜に入った眩しい外界の光が像を結び、再生した視神経が脳に情報を伝達した。
ウェイドはまず現実を疑った。
二人分の呼吸音が鼓膜をふるわせる。まだ夢の中にいるんだろうか。真下にある顔。鼻上までたくし上げられたマスクと、妙に赤く見える唇。自分の両腕は彼の頭の両側に置かれ、右膝は彼の股の間にあった。左脚は、ざっくりと太腿から失われている。
彼、っていうのは、
「あん………?」
じわじわとよみがえる〝夢〟の内容と、目の前の光景がリンクした瞬間、ウェイドはショートしたコードのように勢いよく跳ねて飛びのいた。飛びのいたものの、片足が無いためそのまま後ろにひっくり返る。よく見ると左脚は数メートル離れたところに無造作に転がっていた。
高い空とうすら眩しい春の太陽。吹きすさぶ風。コンクリートの海。ここは、ニューヨークの高層ビルの屋上。
これ以前の記憶をどうにか辿る。おぼろげだが、爆発に巻き込まれてそのまま落下した瞬間が断片的に脳に刺さっていた。その後は?
「……君が死んでて交通の邪魔だから、ここまで運んだんだよ」
蜘蛛はどこか動物じみた動作で上半身を捩るように起き上がった。スーツの方はあちこち汚れてはいるが乱れた様子はない。しかし。
「なあ、俺、あんたに何かした…………?」
聞きたくないような聞きたくないような、やっぱり聞きたくないような。じゃあ何故尋ねた。蜘蛛のグラスアイが僅かに細まる。
「覚えてるの?」
「覚えてるって?え?」
何ってまさかナニを。
冷や汗が流れる。しばし見つめ合う。それから、頭を起こして罪悪感やら焦りやらで聞かれてもいないのに早口で勝手にもほどがある言い訳を始めた。
「悪い。本当に悪かった。いや、俺はあんたにその気はないんだ。まったく無い。あんたのことはめちゃめちゃ好きだしファンだし憧れてるしいい奴だと思うしいい身体してるとも思うがそういうんじゃなくてもっとこう、なんていうかあれだ、恋愛対象じゃないから。そういう好きじゃないしそうだと色々困るし絶対そういう目で見たくないし見れないしそれに、」
うしろめたさと100%とは言い切れない内容が混じる。正直、ウェイドは、この蜘蛛に惹かれている。一緒にいると、とてもあいつには言えないが……まるでピーターといる時のような甘い胸の高鳴りを覚えることすらある。しかしそんなのは恋人への裏切りでしかないし、無いものと思うようにしている。いや、無いのだ。そんなものは。
蜘蛛は思案げに首を捻るとのしのしとウェイドに近づいてくる。となりにしゃがみこんだと思うと、ぱちんと指で額を弾かれた。指先なのにぐわんぐわんと脳が振動する。
「痛いっ」
「……何焦ってるんだよ。押し倒しただけなのに」
「だけ?」
「うん」
「本当に?それよりひどいことしてない?」
「嘘ついてどうするのさ」
セーーフセーフセーーーーフ。
脳内のレフェリーがサインを出す。ウェイドは脱力して再び寝ころんだ。やっぱり夢はただの夢だった。夢で良かった。そもそも本当にどうしてあんな。いや分かってるが。忘れよう、そうしよう。
蜘蛛はそんなウェイドを無言で見ていたが、遠くから響いてきたサイレンにピクリと反応すると跳躍し、軽やかに屋上の手すりの上に着地した。
「じゃ、行くから。またね」
「おう、悪かったな」
「……別にいいよ」
どこか無機質に感じる声でそう答えたヒーローは、次の瞬間にはその場から消えていた。後に残されたウェイドは喉奥に苦いものが残っているのを感じながら額を押さえて大きく息を吐く。どこまでも駄目な奴だ俺は。なまじっか背格好が似ているのが悪い。あいつの周囲に対してはすぐ不毛に妬くくせに自分はこれだ。俺は俺のの心がわからない。愛しくて仕方ないのは確かなのに。
ああ、ピーター・パーカーに会いたい。
*
恋愛対象じゃないし絶対そういう目で見たくないし見れない。かあ。
青年はビルの上から丸い月を見上げ、ため息をついた。その脇腹は裂けて血が流れ、顔のマスクも一部失われ傷跡が晒されている。
先程のウェイドの拒絶が胸に刺さって、傷と一緒にズキズキと痛んだ。
わかってる。ピーター・パーカーとの関係があるから彼はああ言ったんだろう。誠実だから。
でも、それだけでもないんだろうな。ピーターは思う。
口には出さないがずっと思っていることだ。
ウェイドは、あくまで一般人のピーター・パーカーだから好きなのではないか。
ウェイドが好きなのは常人で、大いなる力も持たないのにヴィランにも怯まず立ち向かう勇気のある、ただの教師のピーター・パーカーであって。だから、あんなに近づいても、ピーターとスパイダーマンを少しも結びつけることができないのではないだろうか。スパイダーマンは彼にとって恋愛対象ではないから。
今日の態度を見て更に強く感じた。
もしそれが、そうじゃないと知ったら?出会った時のパーカーの行動は勇気なんかじゃなく、責任を果たすためと知ったら?騙されていたと知ったら?彼はどう思うんだろう。
スパイディのことが好きだって言われたらそれはそれで嫌なのに、まったくもっておかしいな。特定条件で発生するバグみたいだ。我ながら苦笑する。
唇に触れる。ウェイドに、また嘘をついた。
本当はキスをされた。
ピーター・パーカーにするのとは、違う口付けだった。過去に関係のあった誰かと間違えたのだろうか。
その指でそのまま頬に触れる。痛い。これは多分、青痣になる。
明日も授業があるし、ウェイドに会う約束なのに、どうしよう。誤魔化せるかな。
通常の人間よりはだいぶ傷の治りが早いとはいえ、今日の明日で綺麗に治ったりは流石にしないだろう。今までは実験中火傷しただとかちょっとぶつけただとか、そんな言い訳でどうにかしてきた。しかし、この脇腹の傷は中々派手だ。僕だから平気だけど。
ピーターは彼の顔を思い浮かべ、マスクの下の目を細めた。
「正体……か」
やっぱり、言えないよ。隠し続けるのが難しいのは知っているけれど。
空が白む。夜が明けてしまう。
*
「どうしたんだ?それ」
部屋のドアを開いたピーターの顔を見たウェイドはその顔を指差して首をかしげた。頬と額にガーゼを貼り、鼻の上に絆創膏を貼ったピーターはいつもの、眉をハの字に下げた困り顔で微笑んでみせる。
「えっと、ちょっと転んで……」
「本当に?」
「うん」
「ドジにもほどがあるだろまったく」
「そうだよね」
二人してアハハハと笑って、沈黙。
次の瞬間、ウェイドはピーターの襟首を引っ付かんで部屋に押し入った。
後ろ手にガチャリと施錠する。ぐるりと体勢を入れ換えて、ピーターの背をドアに押し付けるように追い詰めた。
「さすがに転んだ傷には見えないなぁ。パーカーせんせ」
「えっと……………」
ヘーゼルの目が泳ぐ。ウェイドはとりあえずといった感じに張り付けてあるガーゼをぺりぺりと剥がした。現れたのは青く変色した肌の色。
「殴られたみたいな傷だ。何があったんだ?」
「大したことじゃないよ。心配しないで」
ああこの顔だ。隠し事をする時の顔。
今までも妙な怪我はしていたが、気遣いで問いつめず来た。しかし今は少々、タイミングが悪い。
ウェイドはピーターの首から、ネクタイをしたままの青いワイシャツの上に右手をゆっくりと、確かめるように滑らせていった。右脇腹のあたりを触れると、僅かに彼の眉が寄る。親指でなぞると小さく声があがった。
「っ……ウェイド、」
「動くなよ」
伸ばされた手の手首を掴んでドアに押し付けた。もう片手でネクタイを解き、シャツのボタンをリズミカルに外していく。それを左右に開くと、見た目によらず鍛えられた身体にはぐるぐると包帯が巻き付けてあった。既に乾いた茶色い血が表面に滲んでいる。大したことのない怪我、には到底見えなかった。俺の身体じゃあるまいし。
「……もう、血は止まってるから」
「誰かに刺されたのか?」
「ちがう」
「なら……」
「……………」
ピーターは黙ったまま俯く。
ガタ、とわずか一枚ドアを隔てて人の気配がした。ざわざわと話し声が聞こえる。どこかの訪問客が話し込み始めたようだ。
ウェイドは無言で膝をピーターの股間に挟み込むと、ぐりぐりとそこを押し上げた。
「っ、ぁ、なに、」
突然のことにピーターの目が見開かれる。
その反応を笑って、低く、耳元で囁いた。
「話したくなるまでここでするか?我慢大会だ」
「っ……やめ、ウェイド…………、」
優しくすると決めているのに、必死に声を堪える顔に嗜虐心が刺激される。
抑えろ、と頭の奥で声がした。
ブレーキが壊れかけている気配がする。やめておけよ。彼のぜんぶは見たいが、自分の現実の汚泥のような本性など晒していいもんじゃない。後悔しかしない。
ウェイドは大きく息を吸って吐くと、名残惜しさを感じながらなんとか「冗談だよ」と言った。そうだ。これでいい。代わりに、ほっとした様子で脱力しているピーターと額同士をくっつけた。
「言いたくないならそれでいいが……」
本当は全っ然良くないが。
「あんたに何かあったら生きていけない」
「………君は死なないだろ?」
ウェイドは思わず肩を震わせて笑った。
「随分と残酷なこと言うんだな」
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