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 考えても詮無いことだ。それでも頭を巡るのはきっとこの雨のせい。

 自分の番だが休日なので自室に引きこもるだけで何もしていない。
 いや、本当はここが夢の中で本物の肉体は雨の中駆け回っているのかもしれないが。わからない。スティーヴン・グラントは眼鏡を置いて窓を眺めた。

 時折雷を伴う激しい雨が一日中降り続いている。
 こんな風に時間の感覚が分からなくなるほど薄暗い部屋の中で寝たり起きたり本を読んだりを繰り返していると、普段よりも思考が深く沈みこんでいく。忙しさに考えることを一旦保留にしていた事項が泥の底からぶくぶくと浮上してくる。

 金魚に餌をやり、積まれた本を雪崩が起きない程度に片づけ、通りすがりに鍵のかかった戸棚の鍵穴を指でなぞった。中身は携帯電話だ。スティーヴンはマークの隠した鍵のありかも端末の中身も知っているが、知らないふりをしている。

 古い携帯電話のカメラロールを遡るとそこにはスティーヴンの知らない、マーク・スペクターという男の人生がある。
 一緒にいた人。住んでいた街。生活感のある部屋。食事。空。何気ない風景。写真に残っているということは彼が望んで残しておきたいと思ったことのはずだが、マークはそれらを全て置いてきた。そのどれも、端末ごと棚の奥深くに過去としてしまわれている。
 それらはスティーヴン・グラントの人生と違い、確かに存在したものだ。いまだにどこまでが現実の出来事で、どこからが理想を糧に作り出されたものだったのか境が曖昧だ。それを考える度になんとなく泣きたいような気がしてくるが涙は出なかった。実際悲しいのかもよくわからない。過去の全てが虚しいかといえばそうでもなかった。スティーヴンには思い出したくない過去などない。悲しい記憶も、腹立たしい記憶も、やりきれない記憶もあるが、忘れてしまいたいとは思わない。覚えていたいし、マーク・スペクターの過去も知れるだけ知りたいと願っている。彼のことが好きだから。窓の外が光る。数秒遅れて音が鳴る。その間の時間でぼんやりと雷への距離を計算する。少し近くなったようだ。

 鏡には彼ではなく自分が映りこんだ。部屋着のままで髪はぼさぼさ。
 マークはスティーヴン・グラントをいつも前向きで自分の理想だったと言う。その言葉自体は嬉しいのだが、こんな自分が本当に理想でいいのかとスティーヴンはたまに疑問に思う。平凡なのは確かにそうだが、傷つきもするし悪態をつきもする。嫉妬もするし怒りも覚える。日々の生活では上手く行かないことが多い。記憶の大部分は空白を埋めるために作られた偽りで。それでもおまえは理想なんだと"もう一人"は言う。おまえは嫌なところを切り取って、欲しいところを足して繋ぎ合わせた綺麗なコラージュだから。同じ顔がそう笑う。
 それはいいことなのかな。さあな、いい悪いじゃないかもな。心の傷や日々降りかかる悲しみなんて地形とか天候みたいなもので、消えないんだから付き合い方が変わるだけだ。傘をさしたり、靴や服を変えたり。得意な奴にまかせたり。
 思い返しながら目を閉じる。

 ふっと、一瞬意識が途切れた間が実際にはどのくらいの時間だったのかわからない。
 目を開くと隣にマーク・スペクターがいて、スティーヴンを見下ろしていた。おはよう、と言うな否や肩を押され口を塞がれた。開いたばかりの目を閉じてされるにまかせる。数度の接触の後、自分と同じ温度の、同じ匂いの、同じ味の舌が半ば強引に侵入してきて口内をまさぐり舐めまわした。こういう時どう呼吸をすればいいのか未だにわからない。快感と酸素不足で溺れたようになる。彼がいるということは現実の肉体ではないのだから呼吸など必要ないのかもしれないが。
「……スティーヴン。探したぞ」
「僕はずっとここにいたけど……?」
 マークがため息をつく。認識の齟齬が起きている。窓ガラスを叩く水滴の音。相変わらず雨は降り続いているようだった。
 記憶を擦り合わせないまま互いの存在の熱がまた近づいて首筋に歯を立てられる。耳元で低く囁かれ、スティーヴンはそれに同意した。光と、少し間を置いて雷鳴が響いたが今は距離を計算する余裕もない。
 服を剥がされる。彼が服を脱ぐ。ぴりぴりと苛立ちにも似た彼の欲求が触れ合った箇所から弾けて肌を痺れさせた。絡み合った指先、重なった掌。濡れた唇。空気を震わせる声、音、焦がす熱、湿度、味覚、柔らかさと硬さと匂いと色彩と。ここにある感覚全て。スティーヴンの存在を構成する最小単位そのひとつひとつに記憶を刻み込むようにマークが触れる。内部を滅茶苦茶にかき回される。お互いの境が曖昧になり明確になり、彼の存在に満たされ征服される。軋んでひび割れて再構成される。半ば暴力的に欲をぶつけ合い受け止め、スティーヴンは声をあげてマークの名前を呼んだ。深く貫き、揺さぶりながらマークが口を開く。
「今日は何してたんだ?」
 夕食時に弟に尋ねるような質問をこんな行為の途中でしてくるのをなんだかおかしく感じた。少し考えてから答える。
「……いつもと同じだよ。本を読んだり、君のことを考えたり。っ……、ねえ……マーク」
「なんだ」
「君の、古い携帯電話の……カメラロールって、残してる?」
「…………全部消したが」
「そっか」
 ふふっと笑うと、マークは眉間にしわを寄せて「おい、どういう意図の質問だ?」と問い詰めてきた。
 彼はスティーヴンに隠し事を沢山しているが、スティーヴンに隠し事をされるのをひどく苦手としている。

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